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知栄 お母さま!
けい ……。(戻ってきて坐る)
知栄 今、おじさまを連れて行った人達は、何ですの。
けい なんですか立《たち》はだかって。お話をするならそこへお坐りなさい。
知栄 お母さま、おじさまは一体何をなすったからあの人達に連れてゆかれたのですか。
けい おじさまが何をなすったか、これから何をしようとしてらしたか、私は知りません。もう知る必要もないことです。
知栄 お母さまは、おじさまの為に何かして上げることは出来なかったのですか。あんな風にこちらから突き出すようなことをしないでも、もっとやさしくして上げる方法が考えられなかったのですか。
けい あなたには話してもわからないことです。
知栄 いいえ、私は知っています。叔父さまはうちへいらしてから、御自分のことをちっともお話しにならないのですもの、何かあると思っていたのです。お母さまもそれは知ってらっしゃるのだとばかり思っていました。
けい 私がそれを知っていたら今日迄黙って放っておかなかったでしょう。
知栄 お母さま。お母さまはそれで御自分が淋しくはないのですか。お父さまの本当の弟さんじゃありませんか。お母さまだって久し振りにお逢いになった義理のある人じゃありませんか。自分の家族を自分の手で縛るようなことをなすって、お母さまは苦しくないのですか。
けい 世の中には苦しくても淋しくても、しなければならないことというものがあります。叔父さまにもそれはわかってらっしゃると思いますよ。
知栄 私にはとても我慢が出来ません。ふみ子おばさまも、総子おばさまも、以前にはあんなに出入りしてらしたのにこの頃は、もうまるでよりつきもなさらない。お父さまはお父さまで、アパート住居《ずまい》なんかなすっておしまいになる。他の親類の人だってむろん、前を通っても声もかけない。くる日もくる日もお母さまと私と二人っきり、思いがけなく栄二叔父さまが帰ってらしたと思ったら又こんなことをして、おしまいになる。私にはお母様の気持がわかりません。
けい 私だって、二十年振りにお逢いした叔父さまと、こんな別れ方をするとは思ってもみませんでした。でも仕方がありません。あなたのおばあさまが以前私に仰言しゃいましたよ。誰にでも自分一人の願いというものはある。けれども、その願いを捨てなければならない場合ってものが又あるってね。
知栄 人間じゃありませんか。生きていて血の通っている人間じゃありませんか。お母さまは夜中ふと目をさまして、自分の手で自分の胸を抱いてみるようなことはおありにならないのですか。道端の小さい花をみて生きていることの嬉しさがおさえきれないというようなことが一度でもおありにならないのですか。お母さまは……。
けい (いきなり、ぴしゃりと知栄の頬を打つ)
知栄 (驚いてちょっとの間けいの顔をみている)
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章介、入ってくる。中の有様にこれもちょっとまごつく。
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章介 どうしたんだね。
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知栄、いきなり立ち上って馳け出そうとする。
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章介 おい。どこへ行くのだ。
知栄 私はお父さまの所へ行きます。これからお父さまと一緒に暮すんです。
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出てゆく。
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章介 知栄。おい、知栄。……行ってしまった。
けい ……。いいんです。その方があの子の為にもいいのです。私は前からそう思っていました。これで私はほんとにひとりになってしまいました。何だか却《かえ》って、さっぱりしたような気がします。叔父さま、あなたも今度こそ行っておしまいになるんでしょう。さあ、いらっしゃい。私はもう驚きません。
章介 ところが、俺はもう決して、お前の傍から離れることはないだろう。世界中の者がお前から去って行っても俺はお前の傍についているだろう。
けい そうですか。何方でもいいんですがね。栄二さんは共産党員だったんだそうですよ。知栄は、自分が何をいっているんだか、自分でもわかってやしないんです。私は自分のやったことが間違っているとは思いません。それだのに私は、知栄にあんな風にいわれると、どきんとするのです。他の人がやったら立派な行《おこない》で通ることが、私がやるとみんな厭味で鼻持ならないことになってしまうんですね。出しゃばりでひとりよがりで冷たくて人間味がなくて……私にはそれがだんだんわかってくるのです。それでいてどうにもならないのですよ。皆が私から離れてゆくのが当り前だという気がするの
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