よう。話がすんだらそこから怒鳴ってくれ。
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出て行く。
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栄二 何ですか姉さん。毎日一緒にいて、今直ぐ話なんて……。
けい 栄二さん。私、一度伺おう伺おうと思っていたのですが、あなたは今度、一体どんな御用で内地へ戻ってみえたのですか。
栄二 いや、御用などというものはないんです。初めにいいました通り、しばらくぼんやりして何も考えないくらしをしてみたいと思いましてね。
けい 奥さんや二人の子供さんを中国に置いて御自分一人、こんな遠い所へ来てのんびりなどしていられますか。
栄二 遠い所へ来たって何《いず》れは帰るんです。そう始終妻子のことを気にもしていませんよ。向うだってたまにのうのうと、鬼のいない間に洗濯をしてみたいでしょう。
けい 何時、何処が戦争でごった返しになるかわからない中国にいて、女や子供だけで、のうのうと旦那様の留守を娯《たの》しんでなどいられるのですか。
栄二 些《いささ》か不審尋問の形をそなえていますね。姉さんの話というのはそれですか。
けい (無視して)あなたは昨夜、一体何処へいらしたのですか。
栄二 そんなことをあなたに話す必要はないでしょう。私は子供じゃないのですから自分の行動を一々あなたに断ることはないと思います。
けい いいえ。話していただかなくちゃなりません。堤家の相続人の妻として、夫の家族の生活について知っておかなくちゃならないことです。堤が家にいればあの人がお伺いする筈《はず》のことです。仰言しゃって下さい。
栄二 とすれば、私は御返事をお断りする迄ですが。
けい それじゃ、あなたが向うでなすってらしたことは、私達に知られてはまずいことだと思っていいのですね。それから今度内地へ戻ってらした御用というのも、世間に知れては困る御用だと思っていいのですね。
栄二 御推察に委せます。何方にしても僕の行為についてそこ迄|立入《たちい》ったお話しは、あなたとする必要はないと思います。
けい ……。そうですか。……仕方がありません。玄関にあなたを尋ねてお客様がみえています。(名刺を放り出して)お逢いになってらっしゃい。
栄二 (ちらりとみて、ぎょっとする)姉さん。いるといったのですか。
けい 私はもっと別な御返辞をしなくちゃいけなかったのかしらと思いながら此処へ入ってきました。でも、今あなたの話を聞いて、自分の返事が間違っていなかったと思います。
栄二 莫迦《ばか》な、あなたに政治のことなどわかるものですか。(立って庭へ下りようとする。庭の向うを、二人の男が、ゆっくり歩いて横切る。栄二座敷へ戻る)姉さん、私はたった今、叔父さんからあなたの身の上について僕の知らなかったことを聞きました。そうしてちょっとの間大変素直な暖いショックを受けました。しかしそれはほんのちょっとの間。実に短い、甘ずっぱい感動でしたよ。あなたは私を……他の誰でもない、この栄二をさえ売ることの出来る人なのですね。
けい ゆく所へ行ってよく考えてらっしゃい、売るとか売らないとかいうのはあなたの仲間同志で仰言しゃることです。私は一度もあなたの仲間になった憶えはありません。
栄二 ははは。こりゃ一本参りました。成程あなたは私の仲間じゃない。あなたは私にとっては寧《むし》ろ敵に属する人だったかもしれない。
けい あなたの……奥さんと連絡のとれる方法を教えておいて下さい。あなたのいらっしゃらない間の、奥さんと子供さんのことは御心配のないようにしておきます。
栄二 折角ですがその御好意はお断わりしましょう。たとえ私がお受けしたとしても、私の家族は、あなたの親切を受けるくらいなら、むしろ餓死を歓迎するでしょう。尤も、くやしまぎれにあなたをつけねらうくらいのことはするかもしれませんがね。しかし、おかしな話ですね。あなたと僕とは、ずうっと昔、やっぱりこの座敷で中国について話し合ったことがあるような気がします。取とめもない、夢のような話でしたが、私達は中国のことを話すことで、随分親しみを感じました。あなたにはお父さんの骨を埋められた土地、私にとっては、父が再び世の中へ出て来た土地、ところが今は、その中国のことをもう一度語ることによって二人は敵味方に別れてしまったのです。時も経《た》ったが人間も変りました。まったくおかしな話ですね。(その時再びさっきの人影が黙々と庭を横切る)さあ、あの人が急いでいるようです。では私は行きます。御機嫌よう。
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栄二出て行く。けい、石のように黙然としている。間。つと立って栄二の後を追おうとする時、うしろの廊下から。
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