引くべきですよ。
けい 私は、そうは思いませんね。中国は中国と、生活の上で一番関りの深い国と手を握り合うことでしか独り立ちは出来ませんよ。その国は日本ですよ。
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けい、出て行く。
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章介 おいおい、お茶の仕度ならいいよ。
けい ええ、でも、お茶くらい淹《い》れますよ。
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出て行く。
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栄二 (見送って)あの人は、たしか僕より三つくらい下だったけが……。随分ふけてみえるなあ。
章介 あの女のやってきた仕事はお前や俺以上の仕事だ。ふけてみえるのはあの女にとって戦いの勲《いさおし》とでもいうべきものだろう。
栄二 そうのようですね。しかし少々やりすぎたのじゃありませんか。
章介 あの女はそれをしなければならないような地位に置かれて、それをしたのだ。あの女の働きが必要な間は働かせておいて、その働きがあの女に持ってきた結果だけをとがめるわけにはゆかん。
栄二 しかし、あの人も昔は空想家で感情のあふれた娘でしたよ。私は、何だか別の人に逢っているような気がして仕方がないのです。
章介 誰だって若い間は空想家で、感情にみちているものだ。それが年をとってくれば実際家で感情の枯れた木念仁《ぼくねんじん》になってしまう。しかし、あの女の偉い所は、若いある時代に自分から思い切ってその空想と感情を絶ち切ってしまったことだ。それからあの女は一度もそのことについて自分の感慨を洩《も》らさなかった。実にみごとなものだ。
栄二 驚きましたね。世の中の美しいこと、嬉しいこと、倖《しあわ》せなこと、そういうものを何一つ信じたことのない叔父さんが姉さんに対して讃美を惜しまないというのは。
章介 何とでもいうがいい。お前は昔、仲のよかった女に久し振りで逢うのだ。もっと余韻のある、しんみりした場面を想像していたのだろう。それとも昔お前を捨てた女が、今は亭主に捨てられている姿をみて溜飲《りゅういん》がさがった気がするのかね。どっちにしてもお前の考えは間違っている。当《あて》が外れて、お気の毒さまという他ないね。
栄二 いや、そのどちらでもありませんよ。私ももう四十です。昔の夢をいつ迄も忘れかねるほど、ロマンチックな人間ではありませんがね。しかしあの人の今をみていると興ざめという気がするのは、又どうしようもありませんね。
章介 その興ざめな人間に誰がしたか、それを知ったらお前もそんな見方はしなくなるだろうさ。
栄二 そんな……人がいるのですか。それは誰ですか。
章介 お前達のおふくろと、この俺だよ。
栄二 僕達のお母さんと……どうしてそんなことをしたのです。
章介 俺がここの店を伸太郎に譲れといい出した時、お前達のおふくろは伸太郎一人では到底やって行けないことを見透していたのだ。だから、伸太郎の女房にあの女をと望んだおふくろにしてみれば、特別な恩恵でも与えるつもりだったんだろう。相手の気持も何も考えず、子供可愛さのエゴイズムから遮二無二《しゃにむに》押しつけてしまったのだ。俺はすぐ後で、それがあの女の本意でないことを知ったのだが、本人は何もいわなかった。従って俺も黙っていたんだ。
栄二 ……。ふーん。そんなことがあったのですか。
章介 ……。あの女は何もいわなかったよ。実に黙々として今日までやってきたよ。あの女に人間として、癖があるのは、俺も知っているが、それはあの女が人間としてのすべてを、あの戦いの生活の中で鍛え上げて来た結果なのだ。あの女の知ったことじゃないよ。
栄二 そうですか……。そんなことは、僕はまるで……。
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けい、茶を持って入ってくる。
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けい お番茶ですよ。
章介 ん。それで結構……。
栄二 いただきます。
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だまって、けいの顔をみながら呑む。
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けい 顔に何かついていますか。
栄二 いや……。ははは。
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顔をそらす。
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けい 叔父さま。私、栄二さんと二人でちょっとお話をしたいのですが……。
章介 いますぐかね。
けい ええ。
章介 そりゃ又急なことだ。それじゃ、俺は遠慮しよう。
けい すみません。追ったてるようで……。
章介 なになに、二階へ行って日向《ひなた》ぼっこでもして来
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