せんな。尤も私は外の仕事が忙しくて家の中のこと迄気を配っている余裕なんかなかったせいかもしれませんがね。それだけに、たまにいる時には珍しいんでしょう。
けい 私の所じゃ、私が店の用事で追い廻されれば追い廻されるほどあの子は私の所から遠くなってゆくのです。お互いに淋《さび》しいんだから、たまにいる時でも、という気が起りそうなものがあべこべなのです。
栄二 でも、あの子は姉さんの立場や気持を、案外わかっているじゃありませんか。
けい そうなんです。あの子には私のことは私以上によくわかっているのです。わかっていてやっぱり我慢がならないのですよ。それを一生懸命に辛抱しているのです。みてて痛々しいくらいですよ。
栄二 そんなに知栄ちゃんのことが気になるなら、どうして、兄貴と一緒に住まないのですか。
けい 私が別居を望んだわけではないんです。此処はあの人の家だし、私が別に住みたいのなら、私がこの家を出てゆくべきじゃありませんか。あの人は私が此処を出てゆくことを望んでもいないのです。私がいなければこの店が困ることも事実ですからね。
栄二 それで、兄貴は不自由とも何とも思わないのかなあ。
けい あの人は、あれでいいんでしょう。若い頃から語学の教師のような仕事につきたかったんですから、この頃は仲々元気にやっているようです。国際学院というのは、在留の印度人、中国人なんかの学校なんですがね。語学の他に歴史なんかも教えているようですよ。
栄二 食事やなんかはどうしているんですか。
けい 食事は近所の食堂を契約して朝晩運んで貰っていますよ。一週間に一度づつ私が行って掃除をして汚れものを持って帰ることにしています。
栄二 随分手のかかる別居ですね。それじゃあどうせ生活費なんかも此方から持ち出しでしょう。
けい あの人はあの人として精一杯のことをしているのです。足りない時は持ち出してもよろしいわ。
栄二 あなたはどうなのです。そういう暮しをしていてそれで満足なのですか。
けい 満足かどうか……そういう考え方をしてみたことはありませんがね……するだけのことをしてこうなったのですもの、これでいいと思っています。
栄二 ……。
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章介。
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章介 此処にいたのか。
けい いらっしゃい。
栄二 今、お帰りですか。
章介 ああ、疲れた疲れた。どうも年のせいか浮世の風の荒くなったせいか、この頃はすぐくたびれて……。
栄二 あまり稼ぎすぎるのじゃないのですか。そろそろ引退でもなすったら。
章介 ううん、引退したいにも、後を継いでくれるものがおらんじゃないか。
栄二 (笑って)私ではどうです。
章介 ああ、お前がやってくれるなら文句はないがね。
栄二 (何か慌てて)いやあ、止しましょう。又何時会社をおっぽり出して行方《ゆくえ》をくらますかもしれませんからな。ははは。……しかし、こうなるとやっぱり強情を張って独身を押し通したことを後悔しませんか。
章介 なに別に後悔もしないがね。しかし驚いたよ。俺のケチなメリヤス会社でも世間並に争議が起るんだからな。
けい まあ……。
章介 世の中は悪くなったよ。市電のストライキ、炭坑の争議、銀行襲撃、張作霖《ちょうさくりん》の暗殺騒ぎ、まるで徳川末期の百鬼昼行だ。一体どういうことになってゆくのかね、日本は。
栄二 まあ、一応ゆく所迄ゆくんでしょ。
章介 行く所というのは何処だ。
栄二 そりゃ、僕にもわかりませんが。
章介 いやに責任を持ったようないい方をするな。俺はこの頃そういう物のいい方をきくと焦々《いらいら》する。
けい ほんとに、このままじゃ家なんかも、間もなく行く所へ行きそうですよ。
章介 う……ん。蒋介石も折角日本の力で共産党を追って返り咲いても、この有様では国民党もガラガラだ。
けい 孫文以来、日本とは切ってもきれない間でしょうにね。
章介 王正廷の背後には米国という後ろだてがいるんだ。王が外交部長に就任すると、同時に米国から田中総理に一種の威嚇的《いかくてき》な申し入れがあったといわれている位だからね。
けい それじゃ中国の政治ってものは誰がやっているんだかわかりゃしませんね。
栄二 誰が出て来たって、今迄のような頭目政治をやっている限り同じことですよ。可哀想なのはその都度《つど》道具に使われては絞られる一般民衆です。
章介 中国の政治のよくない所は何時でも外国の力を利用して、他の外国を牽制してばかりいることだ。こりゃもう、日清日露の役以来そうなのだ。アメリカ、イギリス、ロシア、実に厄介極まる。
栄二 そうですよ、中国はどうしても、中国自身の手に戻さなくちゃいけません。中国に関係のあるすべての外国は中国から手を
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