家中の誰彼を掴《つかま》えてはモデルにしたもんだ。ふみの奴は音楽学校を出て西洋旅行をするなんていってた。二人共その方の腕前はいい加減なものらしかったがね。とにかくこんな具合じゃなかったよ。
知栄 この家にそんな時代があったなんて、信じられないわ、私には。
栄二 尤《もっと》も時代も変った。俺もその頃は中国へ渡って馬賊になるなんて大望を持ってたんだからな。
知栄 でも、叔父さまはとにかく中国へお行きになったんですもの、おじさまだけは初志を貫徹なすったわけでしょう。
栄二 さあ、果して、初志を貫徹したことになるかどうか、こりゃ怪しいがね。お父さんは今でも絵を画いているかね。
知栄 時々……思い出したようにジャガ芋や人蔘《にんじん》の絵を画いてらっしゃるわ。でも、別にそれが書きたいから書いてらっしゃるとは思われないわ。以前からの習慣をやめるほどの決心がつかないからしてらっしゃるとしか思えないわ。
栄二 ジャガ芋に人蔘か。……
知栄 叔父さまは、中国の何処にいらしたの。
栄二 う……ん。いろんな所にいたよ。初めは北京にいたが、近頃ではずっと上海《シャンハイ》にいた。その他|広東《カントン》にもいたし、武昌《ブショウ》にも永くいたね。
知栄 そんなに方々廻って、一体何をしてらしたの。
栄二 そりゃ、いろんなことをしたよ。セメント会社の技師になったこともあるし、苦力《クーリー》みたいなことをしていたこともある。中国っていう所は不思議な所だからね。……ま。そういう話は、又のことにしよう。お父さんとお母さんの別居生活ってものは、長いのかい。
知栄 おじさまは、御自分のことは、ちっともお話しにならないで、うちのことばかりおききになるのね。
栄二 そういうわけじゃないがね、誰だって自分のことってものは厭になるほどわかっているからね、つい他のことに好奇心が働くんだろう。俺も久し振りに自分の家に戻って来て、本家の主人と主婦が別に暮らしているんじゃ、何処へゆっくり腰を落ちつけていいんだか見当がつかないからさ……。
知栄 私は生れた時からずうっとこの家にいるけれど、それでもゆっくりと腰を落ちつけてなんかいたことないわ。
栄二 君は、お父さんとお母さんと、何方《どっち》が好きなんだね。
知栄 わからないわ。お母さんと一緒にいる時はお父さまが可哀そうだし、お父さまと一緒にいる時はお母さまがお気の毒だと思うの。
栄二 それで、親爺は、アパートからその横浜の国際学院迄毎日通っているわけだね。
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けい、前幕の活動的な気負い立った感じとは逆の、静かでどことなく親しみ難い感じ。
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けい (新聞を読みながら入ってくる)国民政府日本品の輸入販売を禁止か? 対支貿易は停止状態……今に中国に関りのある日本人は軒並《のきなみ》倒れてしまうでしょうね。
栄二 王正廷外交は田中内閣の山東出兵を取り上げて、日本の中国に対する領土的野心だとしてますからね。当分この状態は続くとみた方が間違いないでしょう。
けい どういうんでしょうね。中国の政府は商務総会に命令を出して日本から輸入したもの、契約済みの貨物をすっかり登録してしまいましたよ。日本船による貨物の輸送も禁止したそうです。揚子江《ようすこう》を走っている日清汽船は空《から》で動いているそうですがね。
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知栄、黙って立って入ろうとする。
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けい 知栄ちゃん、何処へ行くの。
知栄 (ふり返らないで)何処へも行かないわ。私には、中国のお話なんて、別に興味ないわ。
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出て行く。
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けい ……。あの子は、此の頃だんだん痩《や》せてくるような気がするけど……。そうでもないのかしら。
栄二 姉さんと知栄ちゃんは太陽と月みたいなものですね。姉さんのいる所には知栄ちゃんはいない。知栄ちゃんのいる所には姉さんの姿がみえない。
けい 子供というものは、むつかしいものですよ。私は他所《よそ》のお母さんやお父さんが、三人も五人もの子供を引きつれて平気で街を歩いてらっしゃるのをみると、それだけでへえっと舌を巻いてしまうんです。よくあんな平然とした顔をしていられるものだと思いますね。
栄二 そうかな。むつかしく考え出せばきりのない話だが、なんでもないと思えばそれはそれで済むもんですよ。私をごらんなさい。言葉もうまく通じないような中国人を女房に持って二人の女の子がいます。それでも別にむつかしいなんて考えたことはありま
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