い いいえ、そんな仕方がないなんていうようなことじゃありませんよ。私はあなたと御一緒になる時なくなられたお母様からこの家のことをくれぐれもたのむといわれたのです。ですから私は、そりゃもう一生懸命、お母様にいわれた通り家の中のことお店の事と、一人でやってきたのです。そりゃ私には、あなたの出来ないとわかっている事を知らん顔をして放っておくことは出来なかったし、自分なら出来るとわかっている仕事を出来ないような顔をしてすましていることもしませんでした。だからといって、あなたからそんなことをいわれる憶えはないと思います。
伸太郎 そうなのだ、お前は、なくなったお母さんに堤の家の将来を深く託された。その時お前は堤の家の柱となり、当主である俺の保護者となるという闘志と自負心とに胸を躍らせて立ち上った。ひょっとするとお前は俺の妻になることより、その仕事に対する期待や熱意の方が大きかったのじゃないのかね。
けい 卑怯《ひきょう》ですよそれは。そんなこと今になって仰言しゃるぐらいなら、なぜ今迄私のすることを黙ってみてらしったのです。そんなに私のすることがお気に入らないなら、御自分でおやりになればいいじゃありませんか。
伸太郎 俺も一度はそう思った。だからいろんな方から物事を考え直そうとしてきたよ。しかし、支那問題は金だと放言してはばからないような、お前の一面的な思い上り方をみていると俺は我慢がならなくなるのだ。いいかね、民族と民族の問題はお互いの文化と伝統を尊重することなくして解決の出来るわけはないのだ。いや、こりゃ飛んでもない脱線だ。俺はなにもお前と支那問題を論ずる気なんかなかった。そうだ、言いかけたついでにもう一ついっちまおうか。お前は堤家の重要人物となることの期待の為に、お前自身の心さえ偽《いつわ》ったことがありゃしないかい。
けい 今夜のあなたはどうかしてらっしゃるわ。あなたの仰言しゃることを伺《うかが》っていると私はまるで闇に鉄砲っていう気がしますよ。私は叱られるような悪いことをした憶えもないのに先生に叱られている学校の生徒みたいね。何でしょうその、私自身の心を偽って……。
伸太郎 栄二のことだよ。
けい 栄二さんのこと?
伸太郎 そうだよ。俺は初め、お前が栄二を好きなのだとばかり思っていた。栄二も亦《また》お前を好きなのだとね。ところが、お母さんがお前を貰えという、お前も承知だという。それじゃ俺の思い違いだったのかと、俺は考え直した。お前に、女になくてはならないものが欠けていると、はっきり知ったのは、栄二が無断で家を飛び出したあの日さ。
けい あなた。それじゃあなたは、今迄そんな目で私をみてらしたのですか……。
伸太郎 止《よ》そう。過ぎた話だ。古い古い、昔のおとぎ話だ。(立上って)栄二の奴、今頃、どこで何をしていやがるのか……。(入る)
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けい、ぐったりなってしまう。
縁側の廊下から章介出て来る。黙って籐椅子に坐って、
間。
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章介 人間という奴は実によく間違いをする。まるで間違いをする為に何かするみたいだ。ところで、あんたもその間違い組かね。
けい (ぐっと首を上げて)いいえ、そんなことはありません。誰が選んでくれたのでもない、自分で選んで歩きだした道ですもの。間違いと知ったら自分で間違いでないようにしなくちゃ。
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第四幕
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昭和三年中秋の午後。
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秋の夕方前の日ざしが庭の立木を照らしている。知栄ぼんやり庭をみて坐っている。栄二入ってくる。
片隅の支那カバンを開いて中をごそごそみているが……。
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栄二 知栄ちゃん。
知栄 ああ叔父さま、お帰りなさい。
栄二 何をみているんだね。
知栄 何にもみていないわ。
栄二 いやにぼんやりしてるじゃないか。
知栄 そうかしら、私、時々こんな風になっちまうの、何をするのも何を考えるのも厭になってしまうのよ。
栄二 この家の空気はなんだか妙に沈んでいるね。冷え冷えとしているのは秋という陽気のせいだけではないようだ。まるで水の底にでもいるようだ。濁っていて底のみえない水もあるが、ここのは澄んでいて底のしれない水だ。いつからこんな風になっちまったんだろう。
知栄 しらないわ。私がいろいろなことを憶えているようになってからこっち、ずっとこんな風だったわ。
栄二 昔はこんなじゃなかった。死んだ親爺もおふくろも、賑《にぎ》やかでお祭り騒ぎが好きで家の中には、笑い声が絶えたことがなかった。兄貴は絵書きになるんだといって
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