のよ。眼をつぶって走って通ったわ。すれ違ってゆく人がみんなにやにやして、私の顔をみるような気がするの……。(眼を拭く)
ふみ 姉さん……姉さんどうしたのよ急に……。
総子 いいのよ。ほっといて……。
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伸太郎。
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伸太郎 おや、お客さまはもうお帰りになったのかい。
ふみ いいえ。精三と将棋をお始めになったんですってさ。ほんとうにうちの旦那様にも困ってしまうわ。
伸太郎 けいはまだかい。
ふみ まだなのよ。何してらっしゃるんでしょうね。
伸太郎 仕様がないなあ。すべて自分で段取りをしておいて。
ふみ 全体どこへいらっしゃったのよ。
伸太郎 うん、工業クラブで対支貿易の懇談会があるんだがね。
ふみ あら、そんなものに迄姉さんが出てらっしゃるの。
伸太郎 (苦笑)俺が出るより確かかもしれんからね……。しかし、二人だけ放っておくわけにもゆかないだろうね。
ふみ 精三とお見合いにいらっしたわけじゃないんですからねえ。
伸太郎 お前、とも角部屋へ戻っていたらどうだ。
総子 私なんか、傍にいたっていなくったって同じだわ。二人とももう夢中なんですもの。今度は飛車ですか。はあ角道《かくみち》とおいでなさいましたね、なんて。
伸太郎 俺には又、将棋って奴はちんぷんかんぷんなんでね。
ふみ お見合の収《おさま》りなんてものはどうつけるものかしら。こうなると私もお兄さんもお見合いなんてものしなかっただけに不便ね。
伸太郎 何をつまらんことをいってるんだ。だから俺は初めっからちゃんとした仲人《なこうど》を立ててというのに年をとっているからとか、何度もやった揚句《あげく》だから今度は決ってからにしようとか……。
ふみ 今更そんなこといったって仕方がないじゃありませんか。
伸太郎 今更っていうがお前だってそれに賛成したんだぞ。
精三の声 おーい。ふみ子! どうしたんだ! 総子さん! 猪瀬さんのお帰りだよ!
ふみ あら、お帰りだって。(総子に)さあ、行きましょう。兄さん、あなたもいらしって……。
伸太郎 うん、何だか俺は……。(といいながらついて行く)
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庭から、章介、けい。
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章介 ふっふ。流石《さすが》のお歴々もお前の口にかかっちゃひとたまりもないね。驚いている顔がみえるようだ。
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けいと章介が庭から入って来る。
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けい だってそうじゃありませんか。どうせ乗りかかった船なんですから今更ちっとやそっとの物要《ものい》りを気にしてどうするんです。そんなことばっかりいってるから元も子もなくしてしまうんです。アメリカをごらんなさい。イギリスをごらんなさい。商売上何の値打もない、北京に御殿みたいな銀行をたてて、その支配人が外交官以上の勢力を張って支那の大官たちとゆききしているんですよ。
知栄 お母さまおかえりなさい。
けい ああ只今、私はね支那問題は結局お金だと思うんです。
章介 しかし、そういう支那人自身のその日ぐらしの精神をめざめさせることがまず第一なのだ。今のままで放っておけば、支那はやがて第二のバルカンだ。今ヨーロッパでやってるような戦争をアジヤでも又引起すことになるのだ。
けい それだからいうのですよ。国民党を援《たす》けると決めたなら決めたで、そっちへどんどんお金を注ぎこむ。支那人が日本人と仲よくしてからほんとに暮らしが楽になったと思うようにするのです。それ以外に手はありませんよ。
章介 そう簡単に言うがね、袁世凱《えんせいがい》という人間は、とにかくこの間の第二革命で清朝に替る大勢力となってしまったが、国内では彼の政策を必ずしも歓迎していない。そこへ来ると孫文《そんぶん》は、一時日本に来ていたこともあるし、支持者も随分いるようだが、孫文の三民主義という思想の中には共産主義に一脈通じるものがすくなからず入っているのだ。袁世凱と結ぶか、孫文の思想を支持するか、これは仲々複雑微妙な問題なのだ。
けい いいえ、だから、思想は思想ですよ。思想ってものは政治家が机の上で考え出すものです。権兵衛や太郎兵衛は思想を食べて生きてるんじゃありませんよ。(笑う)
知栄 お母さま、お土産《みやげ》は?
けい あ、しまった、お母さま御用で手間取れたものだからお土産すっかり忘れてしまった。御免なさい。
知栄 ううん。(からだをふりすねる)
けい ああ、苦しい。(帯をゆるめて)私はね、日本のえらい政治家や軍部の連中が、もっと下の権兵
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