とりけいの入って行った方を見送っている。
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[#地から2字上げ]幕

     第三幕

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大正四年夏の夜。

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縁に簾《すだれ》がかかっている。左の縁にある籐の寝椅子ですっかり奥様になっているふみが知栄(五歳)に手紙を読んできかせている。
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ふみ 土着の北京人《ペキンじん》、または、北京に来て一家を構えている人以外の外来者、或は旅行者が北京で住む家に三種類あります。一つは、旅館で、一つは……公《コウ》……公《コン》……寓《コイ》か。読みにくいな。そしてもう一つは民房《ミヌファン》……です、と。旅館は日本人のそれと大して変りなく、長期の滞在には不経済だし、民房《ミヌファン》というのは安いけれども部屋を貸すだけで、食事がつかないので私のような独身者の浪人には……知栄ちゃんは栄二叔父さん覚えている?
知栄 ううん。
ふみ そうかなあ。でもまるっきりってことないでしょう。
知栄 だって……私の生れた時はもう、この家にいなかったんでしょ。
ふみ ん。そりゃ、そうだけど。三つくらいの時に一度帰ってきたわよ。あんた随分よくして貰って方々|抱《だ》っこして行ったりしたんだけどね。
知栄 しらないわ。栄二おじさんて支那で、何しているの。やっぱりお父さんのお店の仕事しているの。
ふみ いいえ、叔父さんには叔父さんでお仕事があるのよ。何をしているんだか、私にもよくわからないけれど……。
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総子、ふみよりずっと派手な衣裳。若づくりの濃化粧。
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総子 ああ暑い、何て蒸《む》すんでしょうね今日は。(袂で煽ぎながら)夜になってもまるで風がないんだもの。息がつまりそうだわ。
ふみ (にやにやして)暑いのは風のないせいばかりじゃなさそうね。
総子 あら、どうして、変なこといわないで頂戴。(入ってきて)知栄ちゃん、お母さままだ。
知栄 まだよ。
ふみ 知栄ちゃん、お母さまいなくってつまんないでしょ。
知栄 ううん。お母さまお家にいたって、お店の御用ばっかりで私と遊んでくれないんだもん。
ふみ それじゃ、知栄ちゃんは誰と遊ぶの毎日。
知栄 一人で。
総子 困っちまうなあ私。どうしていいんだかわからないわ。猪瀬さん、精三さんと将棋を始めてしまったのよ。兄さんは自分の部屋へ入ってしまって本を読んでるし、私何処にいて何をしていいんだかわからないじゃないの。
ふみ まあ。お見合に来て将棋をさしているなんてどういうの。
総子 だって、将棋をしましょうなんていい出したのは精三さんなのよ。
ふみ 呆れた。あの人は、そういう人なのよ。時と所っていう考えがまるでないんですからね。第一お見合の席なんてものは挨拶さえすめば当人同志放っといて、みんな引込んじまえばいいものよ。姉さんが傍にいてくれなんていうものだから、いい気になって腰をすえてるんじゃないの。半分は姉さんがいけないのよ。
総子 だって……二人っきりにされちゃ私困るじゃないの。何を話していいんだかわからないし。
ふみ 話なんか、あなたが考えなくても先様《さきさま》でよろしくやって下さいますよ。初めてお見合いするんじゃあるまいし。
総子 よくってよ。度々《たびたび》のお見合いで御迷惑ならどうぞお帰りになって頂戴。
ふみ あら。私はなにもそんなつもりで言ったんじゃないわ。そうむきにならなくったっていいじゃありませんか。
総子 むきになるわよ。もっということに気をつけてもらいたいわ。
ふみ はいはい。では以後を気をつけることにして……。一体どうなの、お姉さん自身の気持は。
総子 なんだか私にはわからないわ。あの人でもいいような気もするし、もう少し何とかしたのがありそうな気もするわ。結局結婚の相手というものはどうしてもこれでなくちゃというようにして、決るんじゃないってことがだんだんわかってくるような気がするわ。
ふみ 左様でございますか。あああ。いつまでもお若くてお羨《うら》やましいことだ。
知栄 総子おばさん。今日は随分綺れいね。
ふみ ほらほら。子供は正直よ。知栄ちゃんに迄ちゃんとそう見えるんだから。何か奢《おご》って戴かなくちゃ合わないわ。
総子 よして頂戴。私にとっちゃ笑いごとじゃなくってよ。もうもうお見合なんか沢山。その度にどきどきしたり、はらはらしたりするだけでも命が縮まる思いがするんですもの。もういい加減に見合ずれがしてもいいと思うんだけど、やっぱり駄目。自分で自分に腹が立ってくるわ。この間|何《なん》の気なしに写真屋の前通ったら飾り窓に自分のお振袖の大きいのが出てる
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