けていただかなければ今頃、私はどんなになってしまっていたか、考えてみるだけで怖い気がします。ですから私。奥さまがお怒りになるようなことは、決していたしません。それだけは信用して下すっていいと思います。
しず お前は一体何の話をしているのです。
けい いえ、私……何の話をしようと思ったんでしょう。ただ……御免なさい。今日は何だか少し変になっているかもしれません。
しず 私はいつだってお前を信用しています。お前と私とは、同じ月の同じ日に生れたんですもの、お前を疑うことは、私自身も信用のならない人間ってことになりますからね。(笑う)けどお前も若いし家には若い男の子が二人もいるし、まァ、お互に間違いのないうちにと思って急にこんなことをいう気になったのですがね……。
けい ……。
しず といって何も、むずかしいことじゃありませんよ。もう、大分前から考えてはいたことなんだけど……お前も女のことだし、何《いず》れは何処かへ身を堅《かた》めなくちゃならないんだけど……そういうことについて、別に相談する所も、親身になって下さる所もないのでしょう。
けい ……。(うなずく)
しず それじゃ、どう、自分の誕生日にこの家へ迷い込んで来たのも何かの縁だろうから、いっそ本当にこの家の人になったらば……。
けい まあ、奥さま、そんな、私……。
しず そりゃ、女にとっては一生の岐《わか》れ目《め》で、並大抵のことではないのだから気がすすまなければ無理にという性質のものではないのだけれど……。
けい いいえ。気がすすむとか、すすまないとか、そんなことは思ってもみません。私のような生れも育ちもわからないような人間がこちらのようなお宅に上るなんて怖いと思うだけで……。
しず 私は生れを貰うつもりはないのです。人がほしいのです。
けい 奥さまは……私が……ほんとに出来るとお思いになるのでしょうか、こんな、お家のいろんなことが……。
しず お前でなければ出来ないと、思っているくらいなのですよ。お前は気分もはきはきしているし、身体も丈夫だし、働きもので、おまけに店の仕事も随分面白がっているようだし、お前がやってくれれば私はどんなに安心して隠居が出来ると思うのです。私だっていつまでも生きているものじゃなし、伸太郎はあの気性で、あの子一人に何もかも委《まか》せるのはどう考えても無理だと思いますからね。
けい 伸……私を、この家のものになれと仰言しゃるのは伸太郎様の……。
しず そうですよ。お前はどうお考えだったの。
けい いいえ別に……。
しず 自分の子供のことを自分でいうのもおかしいけれどあの子は家庭の旦那様としては誰に比べても恥かしい人じゃないと思います。ただ人中へ出て激しい世の中を渡るのには何か欠けた、弱い所がある気がするのです。そこをお前に家の中から助けてやってほしいのです。
けい 困りますわ、そんなに……でも、伸太郎さまはお家のお仕事よりは、学校の先生のようなことの方が……。
しず 誰にだって自分一人の願いというものはあります。私だって子供は可愛いのです。子供のしたいようにさせてやりたい気持は誰にも負けません。けれどこれは私がさせるのではないのです。家がそうしろと命じるのです。わかりますか。
けい はい。でも私、奥さま……。
しず 子供に家を譲るということは、苗木を土地に植えつけるようなものです。親というものは取越し苦労なもので、添木《そえぎ》をしたり、つっかい棒をしたり。傍《はた》からみればそれほどまでにしなくともと思えることが親にとっては一生懸命なのですよ。わかってくれますね。
けい はい。それはよくわかっております。けれど……。
しず お前は先刻、私の恩を忘れないといってくれましたね、だったらどうぞ、私のためにでも、このことを承知しておくれ。ね。
けい はい。(泣いている)
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間。
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しず ほほほ。なんでしょう。二人共泣いてしまったりして。さあもう、話はすみました。他の者が不思議に思うといけません。彼方《あっち》へ行きなさい。
けい はい。(行こうとする)
しず お待ちなさい。その顔じゃ却《かえ》って変に思われるかもしれない。私が先にゆきますから、少し此処にいて顔を直して行った方がいいでしょう。今の話は折を見て私から皆に話します。お前はそのつもりでさえいてくれればいいのですからね。じゃあ……(出て行く)
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間、単調なピアノの音。
けい、帯の間から先刻の櫛を出し、ちょっとの間みているが思いきってぽっきり二つに折り庭へ投げ出し入ってゆく。丁度庭の奥から出て来た章介の足許にそれが落ち、章介はそれを手に
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