ですよ。放って置いたら、今日中は出て来やしません。
須貝 有難い。どうです。
昌允 ……。(黙って受とる。須貝は手ばやくマッチを摺《す》る)いや、どうも……。
須貝 ……。全くいい景色ですね。ここからみていると。
昌允 風致保存区域ですからね。
須貝 あの雲の色を御覧なさい。紫色に光っている。荘厳と言うべきですな。
昌允 ああ言う色の酒がありますね。
須貝 そう、なんて言ったか……。とにかく実にいい景色だ。おやあんな所を、女の子があるいてる。日本人じゃないな。
昌允 僕はさっき泳いで来ましたよ。
須貝 みていました。中々鮮やかでした。僕も泳いでみたいと思ってたが。
昌允 まだ、少し冷いです。
須貝 そうかな。少し早いかもしれないな。どうして、泳いだりなんかしたんです。
昌允 どうしてと言うことは、ありませんよ。
須貝 僕は直ぐ帰り給えと言ったでしょう。
昌允 しかし別に用はなかったそうですよ。
須貝 そりゃ帰ってみなきゃ、わからない。
昌允 ところが帰ってみたら、そうだった。
須貝 而《しか》るに、君は、帰らなかった。帰らないで水ん中へ飛び込んだ。何故です。
昌允 理由なんか、無いと言ってるじゃァありませんか。
須貝 言わなければ言わんでよろしい。しかし、僕が美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11]さんを貰いたいと言ったのは僕の間違いでした。取消しておきます。
昌允 しかし……。
須貝 何故なら、僕は、あの人に惚《ほ》れとらん。と言って悪ければ、他の人に惚れている。
昌允 じゃァ、なぜ、美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11]と結婚したいなどと言い出したのです。
須貝 他にすることが無いじゃありませんか。考えても御覧なさい。しかし、つまらんことでした。
昌允 僕の言ったことを聞かなかったのですか。僕は未納が……未納を……。
須貝 美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11]さんは、あなたを、本当の兄貴だと言っていましたよ。
昌允 それは、言い訳になりゃしない。
須貝 それに、正直に言うと、あなたの言いなりになることは僕の自尊心が許さんものね。
昌允 莫迦な。
須貝 莫迦なことです。そしてもう一つ、決定的に莫迦なことは……ああ、もう行かなけりゃァならない。(立上る)
昌允 決定的に莫迦なことは?
須貝 みなさんによろしく。
昌允 須貝さん、行くのは止した方がいい。此処にいらっしゃい。ねえ、行くのはお止しなさい。
須貝 つまらん。止したまえ。
昌允 あなたは、そんなことで、自分の一生のことを決めたり破ったりするんですね、それじゃァ。
須貝 そう大袈裟《おおげさ》に言わんで下さい。あなたは、どうやら僕を非難したい口振りだが、僕にとっては、一つが失敗すれば、後はどれもこれも同じ値打しか持っていませんよ。
昌允 あなたと言う人は、真面目なんですか。真面目なんですかそれで。
須貝 折角ながら、僕にもわからんです。どちらにでもなろうと思えばなれる。と言う所ですね。しかしも少し放っておいて下すったら、僕はきっと未納君を細君にしたくなったと思いますね。おかしな話ですな。
昌允 ――。
須貝 どら。みなさんによろしく、もう、夏ですな。夕方は実にいい。
昌允 仕事の方はどうします。
須貝 それは先生の処置にまかせておきましょう。
昌允 宿が定《きま》ったら、知らせて下さるでしょう。
須貝 知らせましょう。奥さんに明日の晩は成功を祈ると言って下さい。いや、言わない方がいいかな。
昌允 そう言っときましょう。明日は、変ったことが二つあると思ったが。一つになったわけだ。
須貝 じゃ失敬。一つ減ったわけだ。
昌允 さよなら。荷物、持てますか。
須貝 その辺で、車を目付《めっ》けますよ。
昌允 そうですか。じゃァ……。
[#ここから3字下げ]
須貝、去る。
奥の方で、ベルが鳴る。繰り返し。
[#ここで字下げ終わり]
昌允 (二階へ向いて怒鳴る)婢《ねえ》やはいませんよ。
鉄風 (二階へ出て来て)婢やは何処へ行ったんだ! ひとが呼ぶ時に居た例《ためし》がない!
昌允 伯母さんが、病気で宿へ帰ったじゃありませんか。多分、戻って来ないだろうって言ったじゃありませんか。
[#ここから3字下げ]
鉄風、ぶつぶつ云いながら入る。
再び、ベルの音。
[#ここで字下げ終わり]
昌允 ちえ(忌々《いまいま》しく、上を見上げる。今度は答えないで放って置く)
[#ここから3字下げ]
未納、続いて美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11]。
[#ここで字下げ終わり]
未納 妾が行くわ。
美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11] いいから、妾が行くから。
[#ここから3字下げ]
諏訪、二階へ出て来る。
[#ここで字下げ終わり]
昌允 (坐りながら、二階を見て)婢やは、いないんですよ。
諏訪 そうね、妾、うっかりしていた。(降りて来る)
未納 何か御用!
諏訪 いいの、御飯にして貰おうと思って……。
昌允 御飯食べるんですか?
諏訪 どうして?
昌允 僕は欲しくない。
諏訪 喰べなきゃ毒だわ。
美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11] 妾達で、つくってよ。(出て行く)
諏訪 いいわ、何処かへそう言いましょう。
未納 妾だって出来るわ。いいわ、母さん。(出て行く)
[#ここから3字下げ]
間。
[#ここで字下げ終わり]
諏訪 やっと、日が落ちたんだわね。この頃は日が長いものだから……(窓を押し開いて)ああいい気持!
昌允 気分はどうです。
諏訪 ありがと、大体いいわ。
昌允 そりゃいい具合でした。
諏訪 頭の芯《しん》が、少し痛いの。
昌允 いけませんね。
諏訪 胸も苦しいのよ。
昌允 ――。
諏訪 足もなんだか、ひどく疲れたような具合だわ。
昌允 あんまり騒ぐからですよ。
諏訪 あなただってそうじゃないの。
昌允 僕は……。
諏訪 お父さんと喧嘩をおっぱじめたり……。
昌允 何だって母さんは、あんなことを親爺に言ったんです。
諏訪 お父さんに?
昌允 親爺にですよ。可哀想じゃ、ありませんか。
諏訪 一番可哀想なのは母さんだわ。
昌允 親爺、茫然としている。
諏訪 妾だってそうだわ。
昌允 そりゃ、僕だって……。
諏訪 御免なさい。母さん昂奮しちゃったもんだから。
昌允 昂奮はいいけれど、母さんは、ほんとに須貝さんを追い出すつもりなんですか。
諏訪 それは、追い出すと言うと、角《かど》だつけれど、どっかへ移って貰いたいわ、その方がいいと思わない。
昌允 別に、その方がいい、と言う理由もないと思うけれど……。
諏訪 何故。今、このままで、あの人にずっといて貰ったとしたら、どう。家中のものが、誰も彼も、気が落ちつかないじゃないの、いやだわ、そんなこと……。
昌允 それは、このまま打《うっち》ゃっとけばそうだろうけれど、あの人の言うとおり、美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11]と一緒にして了えばそれでいい話じゃないですか。
諏訪 それは、出来ないわ。そんなことは出来ないのよ、妾には。
昌允 僕や、未納への心使いだったら、つまらんことですよ。僕達だって子供じゃ、ないんですから。(くしゃみ、二つ三つ)
諏訪 いいえ、それじゃ、妾の気持が済まないの、だから、あなたにどう、未納にどうってことはないの。あなた寒気がするんじゃない?
昌允 いや、母さんの気持なんか、済まなくったって大した問題じゃありませんよ。当人達の気が済めば、それでいいことでしょう。
諏訪 そうは、行かなくってよ。妾は、妾達の家庭を規律のないものにしたくありません。
昌允 規律って言うのは、何です。僕は別に須貝君と美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11]の結婚は、規律を無くするものだとは思っていませんよ。
諏訪 昌さん、あなたの気持もわかります。だけど、母さんの気持だって、わかるでしょう。お願いだから駄々っ子、言うのは止して頂戴。
昌允 莫迦な下らん話です。
諏訪 下らん話でもいいの、母さんいいようにします。
昌允 そうは行きませんよ。母さんひとりのいいようにはならない。
諏訪 だけど、あなたの思うとおりにも、なり兼ねますのよ。
昌允 僕ひとりの、思うようにしようとは言いません。自然な処置をなさいと言うのです。
諏訪 なんです。癇癪《かんしゃく》を起したりして、このことは母さんにまかせて下さい。ね。
昌允 実際癇癪を起しますよ、どうして、あなたは、そんな持ってまわったことをするんです。実につまらん。
諏訪 いいえ、持って回ったことじゃありません。妾は、須貝さんを、信用しないのです。これは一つに美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11]の為なんですもの。
昌允 あはあ。分った、母さんには……須貝さんが、母さんに好意を示したくせに、そのすぐ後から美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11]を貰いたいと言ったことがいけないのだ、そうですね。
諏訪 まあ! 昌さん!
昌允 しかし、そうするより、他に、どんな仕方があります。
諏訪 妾は、貰いたいと言ったことがいけないなど言ってやしない。
昌允 しかし、そうですよ、それは。
諏訪 昌さん、まあ、お聴きなさい、母さんは……。
昌允 いいですよ、母さん。それがいけないとは、誰だって言ってやしません。だけど、もう、すっかり済んじゃったわけです、実を言うと須貝さんは、追立てを喰う前に、自分で追ん出て行きました。あの人も莫迦じゃないですね。(去る)
[#ここから3字下げ]
諏訪、一寸打たれる。今更らしく、戸口の所へ出て行って外を見る。
美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11]、未納。
[#ここで字下げ終わり]
美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11] あら、暗いわね、誰もいないのかしら。
未納 母さん!
諏訪 (我に返って)うん。
未納 そこにいたの。
諏訪 (外を見たまま)此処よ。
美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11] 御飯、出来てよ。
未納 (二階へ)お父さん、御飯!
美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11] どうしたの、母さん。
諏訪 いいえ、どうも……。暗くなったわね。(壁をさぐってスイッチを入れる)
美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11] すっかり暮れてしまったわ。
未納 涼しくなったわね。(窓の傍へ行く)お姉さん、宵の明星よ。緑色をしてるわ。
[#ここから3字下げ]
美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11]、近づいて行く。
[#ここで字下げ終わり]
諏訪 あのね、須貝さんね。どっか、行って了ったんだって。
[#ここから3字下げ]
二人、答えない。
[#ここで字下げ終わり]
諏訪 母さん、いけなかったかしら。
[#ここから3字下げ]
二人、答えない。
[#ここで字下げ終わり]
諏訪 母さんは、出て行って貰うって言ったけれど、そのことはあの人には、まだ言ってないのよ。言わない先に自分で出て行ったのよ。でも、やっぱり、母さんの所為《せい》かしら。
[#ここから3字下げ]
二人、答えない。
[#ここで字下げ終わり]
諏訪 そうかもしれない、何故だかわからないけど、やっぱり、あなた達に、あやまらなければならない気がするわ、もしも、母さんが、いけないと思ったら、堪忍《かんにん》して頂戴。母さんは、いくらでもあやまってみたい気がするのよ。
[#ここから3字下げ]
二人、答えない。
[#ここで字下げ終わり]
諏訪 須貝さんは、妾達みんなに、黙って、行って了ったのよ。左様ならも言わないで、何処かへ行って了ったのよ。少し酷《ひど》いと思わない。だけど、その方がほんとによかったかもしれないわね。これからはみんな、以前のようにずっと仲よく暮してゆけるじゃないの、厭なごたごたなんかなくって……。
[#ここから3字下げ]
美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11]、啜り泣き始める。
[#ここで字下げ終わり]
未納 お姉さん! お姉さん!
美※[
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