ただって、妾だって……(去る)
鉄風 みんな……聞いたかね。
未納 聞いたわ。
鉄風 昌允も聞いたかね。
昌允 そうの様です。
鉄風 じゃあ俺の聞いたことは、確かなんだな。
美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11] 不思議だけど、確かだわ。
鉄風 俺は、今聞いたことを信じなきゃならん立場にいるのかな。一体こう言うことって、有り得ることなのかね。
未納 有り得ることだわ。こう言うことの可能性ってものは、無限大だわ。理窟もなにもありゃしないわ。
鉄風 黙ってろ! 俺が比較的冷静な人間であることは、この際|僥倖《ぎょうこう》とも言うべきことだ。これが普通の人間であってみろ。地団駄を踏み、わめきかえったかもしれないところだ。多分椅子の一つくらいは壊したかもしれんよ。だが俺は、大芝居は好まん。しかし言って置くが、今日の出来事は俺に取っては充分驚嘆に値するものだった。
昌允 (慰める気で)お父さん、元気を落しちゃいけませんよ。きっと冗談ですよ。例えば、須貝さんがそんなことを言ったとしたって、本気じゃありませんよ。また本気にしたところでそんな……。
鉄風 本気にしたところで……どうだと言うんだね。母さんが取り合うまいと言うのかね。それはそうだろう。そうあってほしいと思うよ。いや、そうあらねばならん。しかし……。
昌允 しかし?
鉄風 しかし……(気を換えて)お前の質問に俺が答えなければならんと言うわけはないだろう。「しかし」は「しかし」だ……。今んなって俺は、嫉妬を感じなきゃならんのかね、この俺が。これはやり切れない。我慢のならんことだ。そう言えば、先刻、俺が降りて来た時、諏訪は何時《いつ》に無く陽気ではしゃいでいた様だ……。
美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11] お父さん! お父さん! それは非道《ひど》いわ。あんまりだわ。妾の母さんは……。
鉄風 美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11]。俺は、誰も疑やしない。誰にだって謂《い》われのない疑なんか掛けやしない。だがまあ、考えてみてくれ、須貝は未納と一番仲良しにしていながら、一方では諏訪に言い寄っている。かと思うとお前と結婚したいという。(二階へ上って行く)疑いというのは、こう言うんじゃァないよ。俺達の習慣では、こう言うことは奇怪だと言う。重ねて言うが、俺はお前達の母さんを疑ってなんかいやしない……ただ……お母さんはまだ若い……。(去る)
[#ここから3字下げ]
三人、ぼんやりと大きな溜息をつく。
[#ここで字下げ終わり]
未納 さて……と。
[#ここから3字下げ]
扉を乱暴に閉《しめ》る音。
[#ここで字下げ終わり]
未納 同情するわ、妾……。
美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11] どう言うことになるのかしら。
昌允 どう言うことになるかなあ。とにかく、いろんなことが起ったからね……。
未納 でも、ほんとは、なんにも出来事なんて起きてやしないのよ。
昌允 そうさ。出来事と言うのが、急行列車の顛覆《てんぷく》のようなものだけを言うとすればだ。
美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11] あの人、逐《お》い出されるのかしら。
昌允 みんなが冷静になる迄待つさ。心が落ちついてみれば、いろんなことが分って来るだろう。どちらにしても、須貝さんは、あなたと結婚したがっている。それは、確かな話だし……あなたにしたって……。
美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11] あの人が妾と結婚したいと言うのは、わからないわ。あの人は、妾なんか全然好きじゃないんだわ。若し好きだとしたって、他の女の人と同じほどにだけだわ。なにも特に、妾と……。
昌允 そんなことは、あなたにはわからない。わからなくってもいいことだ。
美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11] あの方、自分でそう被仰ったのよ。勿論はっきりそう言ったわけじゃないわ。だけど妾、自分が莫迦だとは思わないわ。何でも……ないのに……疑って見られちゃ、つまらないから、お互に気をつけようって……そう言うことを被仰ったわ、御自分で……。それから二時間にもなりゃしない今……。
未納 それで、お姉さん、お部屋で泣いてたのね。それじゃ、妾と一緒だわ。
美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11] そうよ、だけど、もうそれで、妾、はっきりしたわ。もう、そんなこと、考えないことにしたの。
昌允 それは……取りようによっては……どうにでも取れることだ。だが……そう言うことで簡単に……そう……言うことを……。
美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11] お兄さんは……妾が、始めに須貝さんを好きになったことが許せないのね。
昌允 いや、そうじゃない。
美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11] そう……。でも……妾(立上る)そうだと思うわ。(出て行く)
未納 お兄さん、そう? ほんとにそうなの?
昌允 そうじゃないよ。俺はただ、美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11]のほんとの仕合せのことを考えてみるだけのことだ。お前、今でも、出来たら須貝さんと結婚したい気かい。
未納 妾? 妾……何だか興味なくなってきた。そんなに言うほどの人かな。
昌允 ふむ。
未納 だけどお兄さんは、あんなに美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11]姉さんが好きだったんだし……。
昌允 勿論さ。
未納 まあ。
昌允 今でもそうだ、俺は美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11]が好きなんだ。大変好きだと言ってもいいくらいだ。ほんとだよ。
未納 威張らなくったっていいわ。
昌允 お前は不真面目でいかん。
未納 ノー、ノー。
昌允 何?
未納 違うって言ったの。
昌允 若い者にあるべき新鮮さ、熱情、烈しさ、(行詰って)烈しさ……。
未納 大胆さ。
昌允 大胆さ。少し違う。
未納 意味はそう言う意味よ。
昌允 兎に角お前のは、怪《け》しからん。
未納 妾はふざけてなんかいないわ。
昌允 そうか。しかし、お前のは、あれはいかん。
未納 何? どうして?
昌允 どうしてでもいかん。あんなのはない。
未納 わからないわ。
昌允 お前のやったことさ。
未納 いろんなこと、したからよく憶えてない。考えてないこと迄、して了ったかもしれないわ。
昌允 だったら考えて見る必要があるよ。お前のやったことはおせっかいというものだ。
未納 だって、あれは仕方が無いわ。
昌允 仕方ないことはないさ。
未納 妾、はッと思って了うと、もう我慢出来なかったのよ。
昌允 自分のことだけやればいいんだ。お前のは露出症だよ、あれは下品だ。自分だけで納得が行かずに俺達の分まで一人で、やってしまいやがった。
未納 御免なさい。
昌允 御免なさいじゃあ、済まんよ。
未納 でも……、そんなにしても、自分じゃちっとも得が行かなかったわ。
昌允 それだから、尚いかんというのだ。ああ言うことは、お前みたいな人間のやることじゃないよ。
未納 ――(溜息)
昌允 厭な顔するな。
未納 変な気持だわ。
昌允 誰だって、そうだ。
未納 お姉さん、どうなんだろう。
昌允 わからん。他人の心どころじゃない。
未納 お姉さんも、少し現金ね。
昌允 そうかい、どうしてだ。
未納 だって、そうよ。
昌允 言ってみろ。
未納 慍《おこ》るから、厭。
昌允 慍る元気もない。
未納 お兄さんのことね……そ言ったらすぐ、その気になっちゃうんだもの……。
昌允 それで、お前だって喜んじゃったじゃないか。
未納 そりゃ、そうよ。
昌允 だったら、一緒じゃないか。
未納 だって……。
昌允 だっても糞もない。
未納 お姉さんだったら、何でも肩を持つわ、お兄さん。
昌允 それは、そうさ。
未納 ――(溜息)
昌允 何だ。
未納 お兄さんはいいわね。
昌允 そうか、どうして。
未納 お姉さんがいるから。誰も彼も、わあッ、と妾を好きになって呉れないかなァ。
昌允 俺だって、美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11]には、考える暇をやらなきゃァ、ならないさ。お前の考えるようには行かない。
未納 お姉さんは考えてるわ。あの人は、お買物する時だって、一番上手だわ、それに須貝さんが母さんを好きなんだとすると……。
昌允 しかし、須貝さんは、俺達の親爺になることは出来んよ、もう、ちゃんと一人あるんだからな。
未納 どうしてお兄さんは、そんなに、須貝さんと、お姉さんを一緒にしたいの。
昌允 したいわけじゃないさ。
未納 そうかしら、でも可笑しいわ。
昌允 何故だ。
未納 お兄さん、一生懸命逃げてるみたいだわ。
昌允 莫迦な。つまらんことを言うな。
未納 だけど、そうみえてよ。
昌允 それはお前の見方だ。俺の所為《せい》じゃないよ。
未納 ――。
昌允 (誰に云うともなく)俺は、美※[#「にんべん+予」、第3水準1−14−11]が俺と結婚することなんか絶対に無いと思ったんだ。あんまり思いがけないことなものだから……。
未納 (立上る)妾、今誰かが、妾を好きだって言って来たら、誰でも好きになってやるわ。ほんとよ、それ……(出て行く)
[#ここから3字下げ]
昌允、じっとしている。立上る。ぶらぶら歩く。マントルピースの上の花瓶をみている。いきなり、そいつを掴むと思い切って床に叩《たた》きつけようとするが、しない。も一度その場所へ置き、両手でそれを撫でている。須貝、服を改めて、両手に相当大きなトランクを提げている。昌允をみて、当惑して立止る。
[#ここで字下げ終わり]
昌允 ああ。
須貝 ああ。
昌允 (じろじろみて)何の真似です? それは。
[#ここから3字下げ]
間。
[#ここで字下げ終わり]
須貝 逃げ出そうと思ってね。(自分の風態を見る)
[#ここから3字下げ]
間。
[#ここで字下げ終わり]
昌允 (了解して)そうですか。
須貝 あなたに、教わったようなものです。止《と》めやしないでしょう。
[#ここから3字下げ]
稍々永い間。
[#ここで字下げ終わり]
昌允 止めるなと、言われれば別に止めやしないけれど……。まあ、も少しいいでしょう。話して行って下さい。
須貝 お家の人に会いたくないのですが……。
昌允 会わずに行くつもりですか。
須貝 手紙を書いておきました。いずれ、お会いします。しかし、今は一寸まずい。
昌允 そうですか、しかしまあ、も少しいらっしゃい。大丈夫ですよ。
須貝 会うと困るんだがな。
昌允 出てきやしませんよ。
須貝 そうですか。(荷物を入口の所迄、持って行っておいて)あんまり、ゆっくりもしていられないが……。
昌允 あなたを行かせたくないな、僕は。
須貝 どうして。
昌允 僕の思ったより、いい人なんだもの。
須貝 有難う。あなたも僕の思ったほど悪い人じゃなかった。
昌允 訣別に臨んで知己を得たわけですね。
須貝 いや、ほんとだ。
昌允 一度一緒に飲みたかったですね。
須貝 そう言う時もあるでしょう。その時はひとつ、やりましょう。
昌允 楽しみにしておきます。
須貝 お互、腹の底を覗《うかが》うようなことは止めてね。
昌允 う……。
須貝 君、オレンヂ・ジュースにウイスキーを入れたりするのは婦人の為《す》ることだ。止したまえ。酒なら灘の生一本、これがいい。それからウイスキー。
昌允 今度会う迄、練習しときましょう。
須貝 よろしい。そう願いましょう。
昌允 荷物は、あれだけですか。他に残っていませんか。
須貝 残っています。あれは、シャツだの、ハンカチーフだの言うものです。それに季節の洋服と、そう言うものです。後のものはおいときます。
昌允 宿がきまったら、送りましょうか。
須貝 そうしていただくとありがたいですな。しかし捨ててくだすってもいいです。あんまり、役に立つものもないんですから、御ぞんじのとおりですが……。
昌允 まあ、いいです。送ることにしておきましょう。
須貝 感謝に堪えんです。う……煙草を喫《す》ってっても、大丈夫ですか。
昌允 大丈夫
前へ 次へ
全11ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森本 薫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング