待ってたような気もするんです。
弘 そりゃ。どう言う意味です。
収 僕はあんまり長い間、あのひとを眺め過ぎてきました。此の頃じゃ、少しやり切れない気がするんです。そんなことをしてるのがです。でも、今更どうすることも出来やしない。今急に僕が来なくなったりしたら、きっとこの家の人が変に思いますからね。だからと言って、僕は今んなって僕を愛して下さいなんて言えませんよ。笑われるかもしれませんからね、長い間他人に見られないで他人のすることを見ていた罰でしょう。
弘 私には、どうもよくわからない。なぜ、あなたは……。
収 いや、僕の考えは多分間違ってるでしょう。それはわかっています。まともな考え方じゃないってことはわかってく[#底本のママ。]るんだけど、やっぱりそんな気がするんです。どうにも仕様の無いことです。あの人を喰った顔をみてると、僕は呆《あ》っ気《け》にとられてしまいます。あまりみごとなとぼけ顔にぼんやりして了うのです。手も足も出なくなるって言う言葉がありますが、こんなんだと思いますね。だから、誰か、あなたでもいい、そんなひとが不意に現れて、どんどん物事を処理して呉れたら……。
弘 あなたは少し、自分勝手を言ってやしませんか。あなたがぼんやりするのは自由です。しかし、あさ子さんの方はどうでしょう。
収 どうって何です?
弘 そうですねえ、あなたがただ、呆っ気に取られているんじゃ、あのひと、失望しやしませんか? それは、つまり、どう言うことかって言うと。
収 それですか。それなら大丈夫です。僕は完全に無視ですよ。こんな服を着てますからね。
弘 ?
収 眼中にはないのです、あの人の。僕は失恋ですよ。(笑う)
[#ここから3字下げ]
間。
[#ここで字下げ終わり]
弘 そりゃ、そうかもしれない、あの人にかかったら、誰だってそうでしょう。私だって、多分……。
収 しかし、悲しいことにその態度も、すっかり僕の気に入りました。堂々と、まるで風のように僕を失恋させましたよ。
弘 そうなりますね。それを押し切ることを、あなたの自尊心が許さないとすれば。
収 自尊心だと仰言るんですか。そうみて下さるなら、それはあなたの御好意だと思っておきます。あなたとお話していて、ほんとに僕は恥しくなりましたよ。あなたもやはり、みんなが持っていないものを持ってられるようです。僕は顧みて自分を恥しいとは思いましたが、あの人のこれから先のことを考えてみて、非常に、なんだか楽しい気持がしてきました。
弘 あなたは、私のことを前から御存じだったのですか?
収 あなたのお出でになる少し前から。
弘 私があのひとと結婚したがっていると言うことも?
収 ええ。それからあのひとの母さんがそうさせたがっていると言うことも。
弘 ちょっと待って下さい。それは、また別の問題です。
収 今日、少くとも今日はそう心を決めている筈です。
弘 じゃ、あなたの気持は、もう動かないのですね。
収 ええ。
弘 若し、私がこのまま黙って帰って、二度と此処へやって来ないとしたら。
収 そしたら、みんなが不幸になるだけです、僕も含めて。何にもならないことです。誰も喜ばない。
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あさ子、少し遅れて、真紀。
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あさ子 何の話、面白そうね。
収 あなたの悪口さ。言われた仕返しに。
あさ子 嘘でしょう。
収 (弘に)そうですねえ。
弘 ほんとですよ。
あさ子 ううん、あなたはあたしの悪口は言わないわ。
収 あれです。あんな気でいるんだから。
真紀 さあ、御飯にしましょう。一緒に来て下さい。何も無いんですけど。
収 も少し、此処にいましょう。静かでいい。
弘 ええ、そうしましょう。まるで街ん中でないようですね。それに日が落ちたので涼しくなりましたよ。
あさ子 母さん、もう葭戸《よしど》を入れなくちゃ、駄目ね。
真紀 そうね。梅雨があがると、うんと暑くなるよ、きっと。
弘 入梅はいつでした?
真紀 十二日。
収 あがるのはいつです。
真紀 梅雨三十日って言うから。
あさ子 雷がなる迄よ。
真紀 此の頃は、雷が鳴ったって、なかなかあがりゃしない。
収 いろんなことが変りますね。あさ子さん、ピアノでも弾かないか。聴きたいんだって仰言ってたよ。
弘 ええ、是非一つ。
あさ子 駄目、あたし。
収 駄目だから聴きたいんだろう。巧いのなら他所《よそ》で聴けるよ。
あさ子 自分がさきに弾けばいいでしょう。ホ短調が楽譜なしで弾けるんだから。
収 僕の後では尚更《なおさら》弾けなくなるよ。さあ愚図々々言ってないで。
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真紀、笑い笑い拍手の形。
あさ子、真紀を打つ真似。
真紀、大袈裟に逃げる。
それでも、あさ子はやっぱりピアノの蓋をあける。
[#ここで字下げ終わり]
真
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