みごとな女
森本薫

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)豪奢《ごうしゃ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)大概|傍《そば》にいる

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]
−−
[#台詞はすべて、折り返し2行目から、天より1字下げ]

[#ここから2字下げ]
  人
あさ子
真紀



豪奢《ごうしゃ》と言うのではない、足りととのった家庭。人形をかざったピアノが一つ、坐り机が一つ、縁先に籐椅子が二つ、卓。みるところ若い女の部屋らしい。
六月。
誰もいない。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから3字下げ]
あさ子。二十四。和服。身体つきは大柄で少し肥っているが美しい。時々片手を上げて指先で両の眉を内から外へ撫でつける癖がある。話をさせても他人の調子には頓着《とんちゃく》なく、緩《ゆっく》り句切って云うようなところがある。外出から帰ったところ。すこしの間部屋の真中に立って周囲を見まわし、思い出したようにピアノの前にいく。
ちょっとためらった後、ショパンの作品九番の第二の夜曲をさぐりさぐり弾《ひ》き出す。甚だしく拙《まず》い。少し弾いて直ぐ行詰まって了《しま》う。立ち上って、楽譜をさがす。
[#ここで字下げ終わり]
あさ子 (さがすものが見つからないらしく)どうしたのかしら……。(もう一度、そんなに多くもない楽譜をパラパラ繰る)あ、そうか……(楽譜を放り出してピアノを離れ、ゆっくり縁側へ出て、又入って来る。机の横に置いた小物入れから作りかけにした衣装人形を取り出し、縁側に行って椅子にかける)
[#ここから3字下げ]
真紀。四十七。ずっと若くみえる。
[#ここで字下げ終わり]
真紀 (縁づたいにきて通り過ぎそうになって気がつき)おや。あさ子、あなた何時《いつ》帰ったの?
あさ子 たった今よ。薬局ん中でみてたんじゃないの。
真紀 いいえ、ちっとも知らなかった、母さん。
あさ子 そう。みてるんだと思ってた。御免なさいね。
真紀 それはいいけれど。また行かなかったのね。(にやりとする)
あさ子 あら母さん、行ったわよ。
真紀 お弁当を届けさせたら、おいでになりませんって、変な顔して帰ってきたよ。ほんとは何処《どこ》かで遊んでたんだろう。
あさ子 ひどいわ。そうじゃないのよ。ほんとに、行ったことは行ったのよ。そしたらね、よし子さんが、帯留《おびどめ》ね、先《せん》から言ってたでしょう、あれを買いに行くから付き合って呉《く》れって言うの。
真紀 お裁縫は厭だし、丁度幸いと言うところね。
あさ子 でもお友達がそう言うもの仕方がないわ。おつきあいよ。
真紀 此の間お師匠さんにお目にかかったら、何て仰言《おっしゃ》ったと思う? あなた。
あさ子 なんて?
真紀 止《よ》そう。可哀そうだから。
あさ子 あらあら母さん、何んて仰言ったのよ。言いかけといて止めるの? そんなことってないわ。さあ、母さんったら。
真紀 何です? それは。あなたいくつ?
あさ子 だって。じゃ言って呉れる?
真紀 薬学校の方じゃ優等生だったそうですが、お裁縫の方じゃ劣等生です、って。卒業の見込無いそうですよ。
あさ子 まあ! 嘘でしょう。
真紀 自分で訊《き》いてみるといい。
あさ子 あたしが訊いたら、そのとおりって仰言るにきまってるわ。
真紀 自分でわかってれば、それでいいさ。
あさ子 そうじゃないの。
真紀 あなた、自分で、いけないって言われることがわかってれば、少しは精を出すものよ。
あさ子 違うんだったら、母さん。お師匠さんはあたしを揶揄《からか》うのよ、そんな風に言って。
真紀 あきれたひとだ。それで、あなた自分では一人前の腕のつもり?
あさ子 卒業の見込み無し、ってほどではないと思うわ。
真紀 (呆《あき》れた感じで)ふむん!
あさ子 何よ、母さん。
真紀 だってあなた。(笑う)
あさ子 厭な母さん。
真紀 あなたのお裁縫は、私が見たって、到底《とうてい》卒業の見込みはありゃしないよ。
あさ子 あら。(悄気《しょげ》て)困るわ。あたし、ちっとも怠けてなんかいやしないのよ。だけど、あれでしょう三年間ちっともお針なんか持たなかったんだもの。そりゃ、女学校の時分はやったけれど。
真紀 そうかな、女学校の時分だって、大概母さんが代ってやっていたようよ。
あさ子 そうだったかしら。
真紀 厭だよ、此《こ》のひとは。そうだったかしらもないわ。
あさ子 でも、古い話だから憶えてやしない、あたしは。
真紀 させられた方で忘れないからいい。
あさ子 母さんは物憶えのいい方よ、どっちかって言うと。
真紀 あなたにはかなわない。
あさ子 どうして?
真紀 どうしてでも。(笑う)
あさ
次へ
全10ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森本 薫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング