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奥さん奥さん、と外でよぶ声。
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あさ子 母さん、よんでる。
真紀 ほら早速《さっそく》だ。収さん、ちょっと失礼。やっぱり忙しいでしょう。(去る)
収 (人形をみて)相変らずだな。
あさ子 楽譜持って帰ったでしょう、此の前の時。
収 そうそう。言わなかったかな。
あさ子 いけないひとよ。弾こうと思ったら無いんだもの。楽器が無いのに楽譜どうするの。
収 使い道は一つじゃないよ。あれ無しじゃ弾けないのかい? まだ。
あさ子 自分だってそうのくせに。
収 冗談だろう。
あさ子 弾ける?
収 ああ。
あさ子 ほんと?
収 あなたとは、少し違うね。
あさ子 まあ。
収 まあ、って何だ。
あさ子 だって、まあだわ。
収 おやおや。
あさ子 おやおやでもないわ。
収 まあ、なんだね。(二人笑う)
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真紀。
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真紀 あさ子、あなた分ってるんでしょう、小宮さんの風邪薬。
あさ子 アミノピリンを抜くのよ。
真紀 それだけじゃ、わかりゃしない。
あさ子 フェナセテン、一・五。ブロバリン、〇・五、ケンチャナ、〇・―。いいわ、あたしが慥えて来よう。あの人、何《ど》んな薬にでも中毒するんですって、あんなのもないわねえ。(去る)
真紀 (坐りながら)あれだけがあの人の取柄《とりえ》。
収 一つ、身についた取柄があれば、大したものじゃありませんか。僕みたようなのもいるんだから。
真紀 あなたはそうでもないらしい。
収 何故?
真紀 あさ子なんか、始終《しょっちゅう》讃《ほ》めてますよ。
収 あれは言えないんだ。悪口なんか、考えつかないんですよ。
真紀 悪口さえ一人前言えないってことになるじゃないの。
収 自慢してもいいと思うけれど……。
真紀 そうだろうか、どうして。
収 理由なく。いや、有りますよ、理由は。
真紀 好みの問題ね。
収 そうとばかりは言い切れないな。
真紀 他人事だからよ。あんたは。
収 まあ、そう言って言えないこともないけれど。
真紀 世間ひととおりの事をさ、あんまり知らなさすぎると思うの。それが……。
収 しかし、何処へ出してもそのままで押しとおせる世間知らずってのはねえ……。
真紀 ああ。
収 いいんですよ、そりゃ、素的《すてき》じゃありませんか。
真紀 そう言うと、あなたは知ってるように聞えるけれど。
収 知りません、僕は。
真紀 お話にならない、それじゃ。
収 おばさん知ってそうですね。
真紀 そうね、年のひらきだけは。
収 案外簡単なものなんだな、それじゃ。
真紀 莫迦《ばか》にするんじゃない。
収 どんなものです?
真紀 世間?
収 ええ。
真紀 世間は……
収 世間でしょう。
真紀 まあ(そうさ)。
収 苦しくって。
真紀 ふん。
収 悲しくって。
真紀 ふんふん。
収 醜くって。
真紀 ――。
収 下品で。
真紀 時々はいいこともあるさ。
収 いいこともね。それだけ?
真紀 まだまだあるねえ。追々《おいおい》分かる。
収 やっぱり、予備知識は要《い》りませんね。
真紀 追々って言うのは……。
収 要る時が来ればわかる、と言う意味でしょう?
真紀 その時が来てもわからないと言う人間は?
収 要らない人か、莫迦か、どちらかでしょう。
真紀 あさ子は莫迦の方なの?
収 前の方じゃないですか。
真紀 何もしらないでいていきなりひどい目に会わされたりすると、どうするかと思うの。そこんところよ、私の案じるのは。思い過ごしかしら、こんなこと。
収 それは悪者ですよ、そう言う奴は。(笑う)
真紀 随分いるじゃないの、そう言うのが。
収 そりゃ仕方がないな。それに悪者だとか悪運だとか言う奴は気を配ってる人ほどつかまり易いんじゃないんですか。
真紀 理屈を言ってるのよ、あなたは。
収 まあ、そんなに心配しなくっていいでしょう。そんな閑に、そろそろいいお婿さんでも探した方が実際的じゃないの、おばさん。
真紀 貰い手があればねえ。
収 ありますよ、いくらでも。おばさんの方で惜しがってるだけじゃないの。
真紀 お裁縫ひとつさせてもね、あたしが気をつけないで放っとくと、袖口迄縫いつめてしまうの。そんなのよ。
収 まさか。
真紀 と思うでしょ。嫁にやる。先様《さきさま》に厳しい御両親でもあれば、直ぐ出戻りだものね。そうなると笑い事じゃ済まない。
収 そういう所へやればいい。それを承知の……と言うより、そう言う所を買ってくれる。
真紀 ないでしょう、そんなの。生煮えの御飯を食べさせられてにやにやしてるなんて……若《も》しあったとしたら、少し気味が悪いわね。
収 そんなこと言ってて、じゃ一体どうするんです。放っといたらだんだん遅くなるばかりじゃありませんか。
真紀
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