糺明《きゅうめい》してやろうと、今日出たついでに、そちらへ廻ってみた。なに、天神下の湯女の宿は三軒しかないからすぐ分ったがね。だが、行ってみて驚いたよ。庄左衛門の相手の女というのも、昨夜から姿を見せないというので、向うでも大騒ぎをしているのだ。てっきり二人|諜《しめ》し合せて駈落《かけおち》をしたものに相違ないね。こうなると、どこまで下司にできているか方途《ほうず》が知れない。俺もよけいな暇潰《ひまつぶ》しをしたようなものの、そんな奴かと思ったら、やっと諦めがついたよ」
「そうか!」と言ったまま、小平太は何とも返辞ができなかった。ただもう自分が糺明を受けているような気がして、胸は早鐘《はやがね》を撞《つ》くように動悸《どうき》を打った。
「だが、女のために大儀を衍《あやま》る」と、勘平はまたごろりと横になりながら言った。「考えてみると、気の毒なものじゃね。こうしてだんだん籾《もみ》と糠《ぬか》とが撰《え》り分けられるんだよ」
「そうだ、籾と糠とが撰り分けられるのだ」と、小平太はようようそれだけ言った。
 勘平は言うだけ言うと気が納まったか、そのまますやすやと寝入りかけた。が、小平太はそうは行かなかった。夜着の襟《えり》に手を懸けたまま、長い間蒲団の上に起きて坐っていた。そして、口の中では、絶えず「籾と糠、籾と糠!」と呟《つぶや》いていた。
 最初彼は相手が自分に当てつけるために、わざと庄左衛門の女の話を持ちだしたのだと思った。が、考えてみると、そんなはずはない。もしおしおのことを感づいていたら、そんな遠廻しに持ちかけるようなことは言うまい。勘平はそんな男ではない! で、おしおのことはまだ何人《だれ》にも知られていない、それだけはたしかだ。が、それにしても、自分はもう二度とあの女に逢ってはならない。この間から四五日遠退いていたのを幸いに、このまま顔を見ないで行く! 不人情かはしらぬが、それよりほかに俺の取るべき道はない。あの女も後でそれを聞いたら、俺のことをさのみ悪くは思うまい。――
「そうだ、俺はもう断じて逢わないぞ」
 そう心に誓った時、彼はやっと安心して横になった。そして、眼を瞑《つぶ》ったまま、
「なに、俺はただ眼を瞑って吉良邸へ飛びこみさえすればいいのだ」と呟いた。「その後は生きるも死ぬるも向う次第だ。お上《かみ》でいいようにしてくださる!」
 彼はいつになく晴れ晴れとした気持になった。それに昼間の労れもあって、そのままぐっすり寝こんでしまった。

     十

 明くる朝眼を覚した時は、またいつもの小平太になっていた。けれども、昨夜立てた誓いを守って、どこへも出まいと思った。そうだ、俺はどこへも出なければいい。そして、安兵衛と勘平の後に喰っついてさえいれば間違いはない、大義を衍《あやま》るような恐れは断じてない。そう思って、彼は一日じゅう宿に引籠っていた。そして、その日は何事もなく過ぎた。
 ところが、四日の朝になって、思いも寄らぬ通知が頭領の手許から一般に達せられた。それは、来《きた》る六日には、将軍家がお側《そば》御用人松平右京太夫の邸へお成《な》りになる旨、不意に触れだされた。それによって、吉良家でも当日の茶会を御遠慮申しあげることになったについては、五日の夜と極めた一条も自然延期せずばなるまい。いずれ後からまた委《くわ》しいことは通達するが、それまではかまえて静穏にしているようにというのであった。
 小平太は張り詰めた気が一時に弛《ゆる》んで、妙にがっかりしてしまった。彼には討入の日の延びたということがちっとも嬉しくなかった。なるほど、五日の夜は延びた。ぼうっ[#「ぼうっ」に傍点]として考えていると、何だか仇討というようなことは夢のように遠い空のかなたへ消えてしまって、そんな日は永久に遣ってこないような気もしないではない。しかもその日は厳然としてあるのだ。それだけはけっして動かない。いつかはまた弛んだ気を引締めて、いったんほぐした覚悟をもう一度しなおして懸らなければならない。それが彼には辛かった。そんなことはとても自分の力には及ばないような気もした。
 彼はもうどうする気もなかった。で、一日二日は宿に引籠ったまま、うつらうつらとしていたが、そのうちにまたおしおのことが想いだされた。そうだ、この可厭《いや》な気持から免《まぬか》れるためには、やっぱりあの女に逢いに行くほかない。なに、庄左衛門は女のために大義を衍《あやま》ったかもしれないが、俺の怖ろしいものは別にある。それは自分の心だ! こうして一人でくつくつ考えていたら、しまいにはどんなことをしでかすか分らない。そうだ、そんなよけいなことを考えないためにも、俺はまずあの女に逢わなければならない。そう思った時、彼はもう矢《や》も楯《たて》もたまらなくなって、すぐに支度をして宿を飛びだした。
 が、女の家に近づいた時には、それでもまた勘平に言われた言葉が気になった。といって、そのまま引返す気にもなれないので、うじうじしながら、とうとう女の家の軒端《のきば》をくぐってしまった。
 女の方では、そんなこととは知らないから、久しく逢いに来てくれなかった恨みを言うことも忘れて、心《しん》から嬉しそうにしながら、
「久しく見えなんだのは、どこかお悪かったのか。そういえば、お顔の色もようない」と、心配そうに訊ねた。
「なに、そう気に懸けてくれるほどのことでもない」と、小平太は面倒臭そうに言った。彼にはもう当座の嘘を言うのが億劫《おっくう》になっていた。といって、真実《ほんとう》のことも言われなかった。
「だって、心配になりますわ」と、おしおもさすがに言い返した。「見えると言っても見えもせず、たまたま来れば、いやな顔ばかりしていらっしゃるんだものを」
「じゃ、来なければよかったね」と小平太は気短に言った。
 すると、女はすぐに気を変えた。「わたしが悪うござんした。お気合いの悪いところへよけいなことばかりお訊ねして、もう何にも申しますまい」
 こう言って、おしおは相手の気を逸《そ》らすように、ほかの事に話しを移した。「わたしもあなたの妻になる身で、あんな茶店に出ていたとあっては、後々どんな障《さわ》りになろうもしれない。幸い、さる人のお世話で、今度松坂町のさる御大家の仕立物を一手《ひとて》で縫わせていただくことになりました。まあ、これを見てくださいませ。今もこんなに来ているくらいだから、どうか、わたしのことは安心して――」
「なに松坂町?」と、小平太は思わず聞耳を立てた。「その御大家というのは、何という家だえ?」
「ええ、中島伊勢様とおっしゃる大奥お出入りの御鏡師ということでございますの」と言いながら、何と思ったか、おしおはきゅうに顔を赧《あか》らめた。「何でもそこの嫁御寮《よめごりょう》は、吉良様の御家老とやらから来ておいでじゃということでございますわ」
「ふむ、そうか」と、小平太は腕を拱《こまぬ》いで考えこんだ。そういうことがあるとすれば、いっそここでこの女に大望を打明けて、その手蔓《てづる》で何事かを聞きだすようにしようかとも思ってみた。が、この間兄に言ってしくじったことを思えば、迂濶《うかつ》に打明ける気にもなれなかった。それに、相手は女のこと、どんなことから事の破れになろうもしれない。まあまあと思い返して、「そうか、主家を滅ぼした敵《かたき》の片割れに縁のある家の仕事をして、身過ぎをするのも時代時節、まあ何事も辛抱だね」と言っておいた。
 その日宿へ帰った時、小平太は勘平に向って、今日中島伊勢の宅へ出入りをするお物師とちょっと知合になったがと漏らしてみた。すると、相手は無性に喜んで、
「そいつはうまいことをした。中島伊勢に娘をくれた家老といえば、やっぱり小林平八郎のことに相違ない。ちょっとそんな話を耳に挾んだこともある。ぜひそいつはもっと立ち入って探索《たんさく》しろ」とすすめてくれた。
 で、その明くる日からは、小平太も大びらで宿を出て、おしおを訪ねることができた。が、女の顔を見ると、別にそんなことも言いださなければ、女の方でも、その後中島伊勢のことはふっつり口にしなくなった。ただ小平太はこうして毎日女の顔を見に行った。
 が、一方では、兄新左衛門のことも気にかかっていた。ああして一時をごまかしてきたもの、あれから一度も姿を見せないから、今ごろどんなに不安に思っているかしれない。もっとも、兄の気性としては、あれだけ言っておいたものを、自分に無断で、はやまって一党に迷惑を懸けるようなことはすまい。なれど、長い間には、自身の不安から、何をしでかさないとも限らない。五日の討入が延びた時には、いっそ安兵衛に事情を打明けて、兄の前だけでも同盟を脱退したように繕《つくろ》ってもらおうかとも考えてみた。が、高田郡兵衛のことを思うと、うっかりしたことを言いだして、どんな疑いを同志から受けまいものでもない。それを思えば、どうしてもそんなことは言いだされなかった。時には、打明けた方が疑いを除くゆえんだとも思わないではなかったが、やっぱり何物かがあって彼を引留めた。で、とつおいつ思案している間に、とうとう言いだす機会を失ってしまった。
 ただ彼は自分の住所を兄に知られていた。そのうちには、向うから訪ねてくるかもしれない。訪ねてこられたら一大事だ。彼は戸口に聞える足音にも胆《きも》を冷すようになった。よそから戻ってきても、まず留守中に誰も訪ねてこなかったと知るまでは安心ができなかった。
 そんな不安な日を送っているうちにも、日数は経って、師走《しわす》の十一日になった。この日同志の一人大高源吾はふたたび宗匠山田宗※[#「彳+扁」、第3水準1−84−34]の許《ところ》から、来《きた》る十四日いよいよ上野介の自邸において納めの茶会が催《もよお》される、その後は年内に白金の上杉家の別墅《べっしょ》へ移られるはずだということまで聞きだしてきた。こうなればもう猶予《ゆうよ》はできない。それに十四日は先君《せんくん》の御命日でもあるから、その日を期して決行しようと、即座に一決して、頭領大石内蔵助からそれぞれ一党に通達《つうだつ》された。
 小平太はまた黙りこんでしまった。何だか非常に遠い所にあるように思っていた黒雲が、きゅうに目の前へ覆《おお》い被《かぶ》さってきたのである。が、安兵衛も勘平も冷静にその通告を受けて、もうするだけの用意はしてしまった、いつでも来いと言わんばかりに落着きすましている。二人の前へ対しても、小平太は自分の落着きのないのが恥ずかしかった。どうかしてそれを覚られないように落着いていようと思うけれど、二人と顔を合せていると、何となく心の底まで見透されるような気がしてたまらない。それでも、その明くる日いっぱいは、じっと辛抱して宿に残っていた。が、夕方になると、もうたまらなくなって、兄の許へ母親に逢いに行くという口実《こうじつ》の下《もと》に、ぶらりと家を出てしまった。もちろん、兄の許へなぞ行く気はなかった。こうなればもう行く必要もなし、また事実行かれもしなかった。彼の行かれる所とては、天上天下、ただおしおの家だけであった。
 彼は途を歩きながらも、「何のためにあの女に逢いに行く?」と考えてみずにはいられなかった。「俺はいったいあの女をどうしようと思っているのだ?」それには彼も自分ながら返辞ができなかった。
「可哀そうに」と、しばらくして彼はまた考えつづけた、「あの女も今に及んで俺がどんな心を抱いて、どんな苦しみを嘗《な》めているか、まるで知らないでいるのだ! こんな便りない男を手頼《たよ》りに生きてきて、その男さえこの世にいなくなったら、これから先どうして生きて行くだろう? 考えてみれば、まったく不仕合せの女には相違ない!」
 ふと、「あの女を殺したら?」というような気が心のどこかでした。「そうだ、いっそのこと、あの女を手に懸けて殺したら、俺も本気で死ぬ決心がつくかもしれない」
 が、そう思うと同時に、彼は自分でも自分の残忍な心に吃驚《びっくり》したように飛び上っ
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