頭領大石内蔵助も定刻前から子息主税を連れて遣ってきた。そのかたわらには、吉田忠左衛門を始めとして、原総右衛門、小野寺十内、間瀬久太夫などの領袖連が坐流れた。で、一同の顔も揃って、いよいよ会議に入ろうとする段になっても、どうしたのやら、一足後れてすぐ後から来るはずになっていた小山田庄左衛門の姿が見えない。すでに同宿の者の中から二人まで裏切者を出していることとて、安兵衛も、勘平もしきりに気を揉《も》んだ。中にも勘平は、自分が一走り行って見てきよう、そこらにまごまごしていたら引掴《ひっつか》んで連れてくるとまで言いだした。が、吉田忠左衛門はしずかにそれを制して、
「この場に莅《のぞ》んで変心するような臆病者をむりに引張ってきてもしかたがない。ここに御出席の方々は、皆亡君のために一命を投げだしている者どもでござるぞ。その方々の手前もある。打捨てておきなされ」と、言葉鋭く言いきった。勘平も理《り》の当然に服して、そのまま黙って控《ひか》えていた。
 いよいよ起請文《きしょうもん》の前書が読み上げられた。これは仇討の宣言綱領といったようなもので、次の四箇条からなりたっていた。いわく
 一、冷光院殿《れいこういんでん》御尊讐《ごそんしゅう》吉良上野介殿《きらこうづけのすけどの》討取るべき志これある侍《さむらい》ども申合せ候《そうろう》ところ、この節におよび大臆病者ども変心《こころをかえ》退散|仕《つかまつり》候者|撰《えら》み捨て、ただ今申合せ必死相極め候|面々《めんめん》は、御霊魂|御照覧《ごしょうらん》遊《あそば》さるべく候こと。
 一、上野介殿御屋敷へ押込《おしこみ》働《はたらき》の儀、功の浅深《せんしん》これ有《ある》べからず候。上野介殿|印《しるし》揚《あげ》候者も、警固《けいご》一通《ひととおり》の者も同前たるべく候。然《しかれ》ば組合《くみあわせ》働役《はたらきやく》好《このみ》申すまじく候。もっとも先後の争《あらそい》致すべからず候。一味合体《いちみがったい》いかようの働役に相当《あいあたり》候とも、少しも難渋《なんじゅう》申すまじきこと。
 一、一味の各《おのおの》存寄《ぞんじより》申出《もうしいで》られ候とも、自己の意趣を含《ふくみ》申|妨《さまたげ》候儀これ有《ある》まじく候。誰にても理の当然に申合すべく候。兼て不快の底意これ有《あり》候とも、働の節互に助け合い急を見継ぎ、勝利の全《まったき》ところを専《もっぱら》に相働べきこと。
 一、上野介殿十分に討取候とも、銘々《めいめい》一命|遁《のがる》べき覚悟これなき上は、一同に申合せ、散々《ちりぢり》に罷成《まかりなり》申まじく候。手負《ておい》の者これ有においては、互に引懸《ひっかけ》助け合い、その場へ集申べきこと。
 右四箇条|相背《あいそむき》候わば、この一大事|成就《じょうじゅ》仕《つかまつら》ず候。然《しかれ》ばこの度退散の大臆病者と同前たるべく候こと。
 この草案は吉田忠左衛門の手になった。忠左衛門のほかには、原総右衛門一人それに参与したと言われる。で、それを一同に読み聞かせた上、異議がなければ、ただちに神文《しんもん》へ血を注いでもらいたいと言いだされた。もちろん、誰一人として異議のあろうはずもなかった。そこで大石内蔵助良雄から同苗《どうみょう》主税良金、原総右衛門元辰、吉田忠左衛門|兼亮《かねすけ》というように、禄高《ろくだか》によって、順々に血判をすることになった。
 小平太は小山田庄左衛門が姿を見せないと知った時から、ほとんど一語も口を利かなかった。が、起請文《きしょうもん》が自分の前へ廻された時には、顫《ふる》える手先を覚られまいと努めながら、それでも立派に毛利小平太元義と署名して、その下に小指の血を注いだ。そして、それを次の勝田新左衛門に渡した。
 こうして大石内蔵助以下寺坂吉右衛門にいたるまで四十八人の血判がすんだ時、さらに当夜の人々心得《にんにんこころえ》が議に附《ふ》せられた。これも忠左衛門の手になったもので、当日定めの刻限が来たら、かねて申合せた三箇所へもの静かに集合すべきことという第一箇条を始めとして、敵の首《しるし》を揚げた時は、骸《かばね》は上衣に包んで泉岳寺に持参すること、子息の首《しるし》は持参におよばず打捨てること、なお味方の手負いは肩に引懸け連れて退くことが肝要だが、歩行|難渋《なんじゅう》の首尾になれば、是非《ぜひ》におよばす首を揚げて引取ること、そのほか合図の小笛、鉦《どら》、退口《のきぐち》のこと、引揚げ場所のこと、途中近所の屋敷から人数を繰《く》りだした場合の挨拶、上杉家から追手がかかった時の懸引、なおまた討入って勝負のつかぬうちに御検使が出張になった場合、それに応ずる口上にいたるまで、すべて十二箇条にわたって残る隈《くま》なく討入の手筈《てはず》を定めた上、最後に退口のことを念頭に置いては、かえって心臆するかもしれない、しかし退いても一定助からぬ吾らの身である、申すに及ばぬ儀なれど、めいめい必死の覚悟にて粉骨砕身《ふんこつさいしん》すべきことと結んであった。これには二三質問も出た。が、入念な忠左衛門の説明に、一同満足して、異議なくそれを承認した。
 それから当夜の各自の扮装《いでたち》、討入の諸道具についても話しがあった。これはそれまでにめいめいその準備《したく》をしていることではあるが、持合せのないもの、または当夜に限って必要なもの、たとえば槍、薙刀《なぎなた》、弓矢の類を始めとして、斧《おの》、鎹《かすがい》、玄能《げんのう》、懸矢《かけや》、竹梯子《たけばしご》、細引《ほそびき》、龕灯提灯《がんどうぢょうちん》、鉦《どら》というようなものは、かねてその用意をして平間村に保管してあるから、明日、明後日両日の間に、それぞれ取寄せておいてもらいたい。ただしそんなことから事の破れになってはならぬというので、人目に立たぬように、それに関与する人数から役割まで定めて、それぞれ言いわたされた。
 こういう風に相談が多端《たたん》に亙《わた》ったために、頼母子講《たのもしこう》は夜に入ってようやく散会となった。散会となるや、安兵衛と勘平とは庄左衛門のことが気になるので、宙を飛ぶようにして林町の宿へ駈け戻った。小平太もその後に随《つ》いて走った。が、そんな時分に、駈落者がそこらにうろうろしているはずもない。安兵衛は取散らした荷物の間に坐って、机の抽斗《ひきだし》を開けては、しきりに小首を傾げ始めた。
「何か見当りませぬか」
「ふむ、金子《きんす》が少々足りないようだ。それに、拙者の小袖《こそで》も見当らない」
「なに、金子?」と、勘平と小平太もあわてて駈け寄った。
「いや、御安心ください。大石殿からお預りして、おのおの方にお渡しするはずの金子は、別にしまっておいたからだいじょうぶでござる。ただ手前の小遣い銭が少々|紛失《ふんしつ》いたした」
「それはそれは」と、二人ともしばらく開いた口が塞《ふさ》がらなかった。
「それにしても」と、勘平はまた猛《たけ》りたった、「何という卑劣な所業《しょぎょう》でござりましょう。脱盟して吾々の顔を潰《つぶ》すさえあるに、他人の金品まで盗んで逐電《ちくでん》するとは!」
「いやなに」と、安兵衛はしずかに言った。「浪人すれば、永い間にはそんな気にもなりましょう。どうせ吾々を見限って一列を脱けた人だ、追及するにも当るまい」
「じゃと申して、吾々の面目にも――」
「だからまあ、金のことはあまり言わぬようにいたしたい。吾々にあってもあまり役に立たぬもの、これから先生き延びる人にはなくてならぬものだからな。はははは」
「そういえば、そんなものでもござろうか、あはははは」と、勘平もいっしょになって笑ってしまった。
 小平太は最初庄左衛門が脱盟したと知った時、ほとんどその訳が分らなかった。ああいう一徹な父親を持っている上に、平生《ひごろ》からずいぶん口幅ったいことも言っていた男が、この期《ご》に及んで逐電する! 彼にはどうしてもありうべからざることのように思われた。が、その一面においては、どういうものか、先《せん》を越されたというような気もした。自分ではまだ遁亡《とんぼう》しようとも何とも思っていなかった。けれども、心のどこかで、やっぱりそういう気のしたことだけは争われない。そして、庄左衛門が満座の中で諸士から罵倒《ばとう》されるのを聞いていた時、まあまあ自分でなくってよかったというような安心を覚えた。しかるに、今宿へ戻って検《しら》べてみると、庄左衛門は他人の金品まで持ち逃げしている! これは下司《げす》下郎《げろう》の仕業《しわざ》で、士にあるまじきことだ。こうなると、小平太ももう自分のことのような気はしなかった。いくら勘平が罵倒しても、他人のこととして平気で聞き流すことができた。そのために、彼はかえって救われたような気もした。
 明くる朝安兵衛は、とにかくこのことはいちおう頭領にも届けておく必要があるというので、早朝から出かけて行った。その後で小平太は、一人|火鉢《ひばち》に向って、ぼんやり考えこんでいた。隣の座敷では、勘平が何やらしきりに書状を認《したた》めている。この間にひとつおしおの許《ところ》へ行ってやろうか、あの女に逢うのももうこれがおしまいだなぞと考えているうちに、隣の間から勘平が片手に書状を持って出てきて、
「ちょっと出かけるから留守を頼むよ」と言った。
 実際、中村、鈴田、小山田とだんだん同宿の者が減ってきては、飯焚《めしたき》の男を除けば、もう小平太のほかに留守をするものもなかった。小平太はまた先を越されたなと思いながら、「よろしい!」と言った。そして、「飛脚を頼みに行くのか」と訊《き》いてみた。
「うむ、あんまり臆病者がたくさん出るので、心外でたまらぬから、いちいち筆誅《ひっちゅう》を加えてやった」と、勘平は問わず語りに話した。(ついでながら、勘平のこの書状は、江戸における赤穂浪士の動静を知る貴重な材料として、今に伝わっている)「だが、戻路《もどり》にはちょっとよそへ廻るつもりだから、少し晩《おそ》くなるがいいか」
「ああ、ゆっくり行っておいで」
 勘平はそのまま出て行った。が、それと入れ違いに、前に出た安兵衛が戻ってきて、
「小平太どの、ひとつ平間村まで御足労を願いたい」と言いだした。
 聞けば、この宿が当夜の集合所の一つになっている。それについては、昨夜の相談では、当夜の諸道具はめいめいの宿へ持ちこむことになっていたが、やはり一部分はここへ集めておいた方がよかろうということに模様が変ったので、御足労だが、これからすぐに取りに行ってきてもらいたい。もっとも、大石殿の若党|室井《むろい》左六が仲間どもを連れて先へ行っているから、それらのものに持たせて、貴公はただ宰領してきてもらえばいいというのだ。小平太は領承《りょうしょう》してすぐに立ち上った。
 平間村までは往復八里の道である。目黒から間道を脱けて行ったが、それでも帰路《かえり》は夜《よ》に入《い》った。小平太は亥《い》の刻前にようよう戻ってきて、自分で指図をして、それぞれ片づけるものは片づけさせてしまった。もちろん、安兵衛や勘平も手伝った。で、いよいよ寝《しん》につこうとした時、そばに寝ていた勘平が、
「おい、小山田の遁《に》げた原因《わけ》が分ったぞ」と、声を潜《ひそ》めてささやいた。
「ええ?」と、小平太は思わず振返った。「それはまたどうしたというのだ?」
「先達《せんだっ》てからあの男は」と、勘平は蒲団《ふとん》の上に起きなおったままつづけた。「よく湯島の伯母の許《ところ》へ行くといっては出かけたものだ。なに、それが伯母の家でも何でもない、天神下の湯女《ゆな》の宿だとは、俺もとうから見抜いていた。だが、なにも他人《ひと》の秘密を訐《あば》くでもなし、何人《だれ》にもありがちのことだと大目に見ておいたがね、今になってみると、それがこっちの手脱《てぬか》りだったよ。で、まだそこらにまごまごしていたら、引捕まえて
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