った言葉が彼の心に泛《うか》んできた。
「そうだ」と、彼はふたたび自分で自分に誓うように呟《つぶや》いた。「どんなことになろうとも、俺はこの口を開けてはならない。――責めらりょうが、殺さりょうが、たとい舌を咬《く》い切ってでも!」
こんな烈しい言葉を用いながらも、彼はそれによって、不思議に、何の衝撃をも、不安をも、恐怖をも感じなかった。この場合、彼には命を投げだすということがきわめて訳もないことのように思われたのである。
「なに、死ぬ気でかかったら、何ほどの事があろう? こちらの覚悟一つだ!」
彼は力足《ちからあし》を踏《ふ》み緊《し》めるようにして歩きだした。見ると、もう吉良家の裏門に近く来ている。かねて小豆屋善兵衛の探知によって、家老小林の宅が裏門に近い所にあるとは聞いていた。が、それでは都合が悪いと思ったか、わざと表門へ廻って、門番にかかった。
「お願いでございます、ちょっと小林様のお長屋へ通らせていただきます」
「小林様へ通るはいいが、いずれから参った?」と、暇潰《ひまつぶ》しに網すきをしていた門番が面倒臭そうに聞き返した。
「へえ、両国橋のお茶道珍斎からお状箱を持ってまいりました」
「そうか、よし通れ!」
小平太はまず虎口《ここう》を免《のが》れたような気がした。が、ここでひとつ落着いたところを見せておこうと、
「私《わたくし》は新参者でよく存じませぬが、小林様のお長屋はどちらでございましょう?」と訊いてみた。
「なに、初めて御当家へ参ったと申すか」と、足軽はやっと手に持った網から顔を上げた。「小林様はお玄関の前を左に折れて、中の塀についてお長屋の前を真直に行くと、一番奥の一軒建ちがそれだ」
「へえ、どうもありがとうございます。こちらへ参りますか、は、分りました」と、お叩頭《じぎ》をしいしい、わざとゆっくり足を運んで、遠目に玄関口を覗《のぞ》いてみると、正面に舞楽《ぶがく》の絵をかいた大きな衝立《ついたて》が立ててあるばかりで、ひっそり閑と鎮《しず》まり返っていた。が、ここらで見咎《みとが》められてはならぬと思うから、言われたとおりに、すぐに左へ折れて、総長屋の前をぶらりぶらりと歩いて行った。長屋にはところどころ人声がして、どこからともなく水を汲む音、夕餉《ゆうげ》の支度をするらしい物音が聞えてきた。が、どちらを見ても、別段目に立つような異状はない。大竹の矢来といったような厳重な設備は、少なくともそのへんには見受けられなかった。
彼はその間も始終右手の塀に目を着けていた。腰から下が羽目板になって、上に小屋根のついたもので、その中が座敷のお庭先にでもなっているらしい。ところどころ風通しの櫺子窓《れんじまど》もついているが、一つ一つ内側から簾《すだれ》が下げてあるので、中の様子は見られない。爪先立ちをしてみても、植込《うえこみ》の間から母屋の屋根つづきが、それもほん[#「ほん」に傍点]の少々|窺《うかが》われるばかりだ。
そのうちに、ふと一枚戸の中門が眼にとまった。ぴたりと閉めきってあるので、そのまま行き過ぎようとしたが、念のためだと二三歩後戻りをして、前後を見廻しながら、そっとその扉《と》に手を懸けようとした。とたんに、行手の土蔵の蔭から声高な話声が聞えてきたので、小平太はぎょっとして飛び退《の》いた。見ると、二人連れの侍《さむらい》が何やら話しながら、すぐ目の前へ遣ってくるのだ。彼はすかさず、
「少々物をお訊ね申しますが」と、小腰を屈めながら言った。「小林様のお長屋はどちらでございましょうか」
二人は立ち留って、じろじろ小平太の様子を眺めていたが、年嵩《としかさ》の方が、
「なに小林様? 御家老のお長屋はついその左手のお家がそうだ」と、顋《あご》をしゃくって教えてくれた。
「へえ、ありがとう存じます、まことに相すみませぬ」と、ぴょこぴょこ頭を下げながら、急いでその家のくぐり戸に手を懸けた。
二人の侍も小平太が門をはいるまでじっと後を見送っていたが、仲間体《ちゅうげんてい》ではあるし、状箱は持っている、別に胡乱《うろん》とも思わなかったか、そのまま踵《きびす》を返して行ってしまった。
小平太はくぐり戸を閉めて、始めてほっと胸を撫《な》で下ろした。一歩違いで無事にすんだけれども、考えてみれば、実際危かった。剣呑《けんのん》剣呑《けんのん》! と思いながら、気を取りなおして、すぐ前の玄関にかかった。そして、
「お頼もうします、お頼もうします」と、二度ばかり声を懸けた。
「どうれ!」とどす[#「どす」に傍点]がかった声がして、すぐ隣の玄関脇の部屋から、小倉《こくら》の袴《はかま》を穿《は》いた爺さんが出てきた。
小平太はいきなり二つ三つ頭を下げて、
「私はお茶道珍斎からこの文箱《ふばこ》を持ってまいりました。どうかお取次ぎを願います」と、手に持った状箱を差出した。
取次の爺さんは黙ってそれを受取って、朱塗りの蓋《ふた》の上に書いた宛名《あてな》の文字をつくづく眺めていたが、「ちょっと待て」と言い捨てたまま、奥へはいった。が、間もなく引返してきて、「すぐ御返事があるそうだから、しばらく待っておれ」と伝えた。そして、自分はすぐに元の部屋へはいってしまった。
小平太はしばらくそこに立っていたが、だいぶ手間が取れるらしく、奥からは何の沙汰《さた》もない。この間だ! この間にそこらを見廻ってやれとも思ったが、さっきの失敗に懲《こ》りているので、もし自分のいない間に出てこられでもして、申し開きが立たなかったら、それこそ百年目だ! なに、まだ帰途《かえりみち》もあることだと、じっと辛抱《しんぼう》しているうちに、やっと奥で手の鳴る音がした。それを聞くと、例の爺さんはそそくさと襖《ふすま》を明けてはいって行ったが、すぐにまた取って返して、
「待ち遠であったな。この中に御返事が入っているそうだ。よろしくと伝えてくりゃれ」と、小平太の持ってきた状箱を渡した。
「畏承《かしこま》りましてございます。そのほかにお言伝てはござりませぬか」
「うむ、これを持ってまいれば分るそうだ」
「さようでございますか、どうもお邪魔いたしました」と、小平太はお叩頭《じぎ》をして、そのまま表へ出た。
さあ、これからはもう帰るばかりだ。が、これだけではせっかく来た甲斐がないような気もした。第一、同志の連中が何と言うか知れない。彼には何よりも同志の思わくが気になった。で、右へ行けば表門へ出るのを、わざと左へ取って、角の土蔵について廻ってみた。すると、もうそこに裏門が見えて、その正面にあたる所が裏口の小玄関にでもなっているらしい。それが眼に着くと、彼はすぐに踵《きびす》を旋《かえ》した。そちらの方面のことは、前原や神崎の手でおおよそ分っていたからである。
で、元来た道を引返していると、ふたたび例の中門が眼にとまった。見ると、前にはびたりと閉めきってあった戸が、どうしたのやら一寸ばかり透《す》いている。想うに、さっき逢った侍がここからはいって、つい閉め残したものでもあるらしい。小平太は天の与えとばかりに胸を躍《おど》らせた。が、遽《あわ》てるところではないと、前後を見廻して、人目のないのを見定めながら、つと扉《と》に身を寄せて、その隙間から覗《のぞ》きこんだ。目の前はやっぱりお庭先の植込らしく、木の枝に視線は遮《さえぎ》られるが、それでも廻縁になった廊下が長くつづいて、閉《た》てきった障子《しょうじ》にあかあかと夕日の射しているさまが、手に取るように窺《うかが》われた。上野介の居間がどのへんにあるかは、もとより知る由もない。が、左手に見える檜垣《ひがき》の蔭には泉水でもあるらしく、ぼちゃんと鯉の跳ねる音も聞えてきた。小平太はだんだん大胆になって、少しずつ門の扉《とびら》を開けて行った。もう少しで頭だけ入りそうになった時、すうと向うに見える障子が明いて、天目《てんもく》を持った若い女が縁側にあらわれた。彼はぎくりとして思わず後へ退った。が、間《あい》が離れているので、向うでは気のつくはずもない。そのまま廊下づたいに、音もなく下手《しもて》へはいって行く。
小平太は振返って、用心深くあたりを見廻した。幸いに、どこから見ていられた様子もない。この上危い思いをして覗いていても得るところはあるまい、ここらが見切り時だと、彼は急いで門を離れた。が、せめて長屋の戸前でも数えて行ってやれと、心の中でそれを読みながら歩いているうちに、不意に背後《うしろ》で「わあッ!」という声がして、五六人の子供が彼のそばをばたばたと駈《か》けだして行った。一人の吹矢を持った男の子の後から、大勢がいっしょになって駈けだして行くのだ。彼はまた胆《きも》を潰した。が、それと分ると、まあ、あそこにぐずぐずしていないで、いい塩梅《あんばい》だと思った。そのうちにとうとう表門まで来てしまった。で、
「どうもありがとう存じます、行って参《さん》じました」と、もう一度門番に挨拶《あいさつ》をして、街の上へ出た。
六
小平太は一丁ばかり来て、始めて吾に返ったように息を吐《つ》いた。別段取りたてて吹聴《ふいちょう》するようなこともないが、使命だけは無事に果した。これだけ見てくれば、同志の前に面目の立たぬようなこともあるまい。そう思って、彼はまた駈《か》けだすようにして林町の宿へ帰った。宿には安兵衛、勘平の両人はいうまでもなく、吉田忠左衛門の田口一真まで来合せて、彼の帰宅《かえり》を待っていた。気早の勘平は、足音を聞くや、縁先まで駈けだしてきて、
「おお帰ってきたな、首尾《しゅび》はどうだった?」と、いきなり訊《たず》ねた。
「うむ!」と言ったまま、小平太はもう一度振返って、後を跟《つ》けるものの有無《うむ》を見定めてから、始めて座敷へ上った。
奥の座敷には、忠左衛門と安兵衛の二人がひそひそと対談していた。小平太はまず忠左衛門に一礼して、さて安兵衛と勘平の前に持って帰った状箱を差出した。
「ふむ、これが返事だな」と、安兵衛は手に取って、ちょっとその上書に眼をやったが、すぐにまたそれを下に置いて訊ねた。「して、邸《やしき》の様子は存分に見てこられたか」
「あらまし見てまいりました」
こう前置をして、小平太は指先で畳の上に図を描いてみせながら、はいって行った時から出てくるまでの顛末《てんまつ》を仔細に述べはじめた。勘平はそばから硯《すずり》に料紙を取って渡した。で、それによって、ふたたび見取り図を描いて説明しながら、
「まずこういったあんばいでございます」と、話しを結んだ。「私の見たところでは、思いのほかに薄手な屋敷で、長屋にも母屋にも、噂に聞いた竹矢来なぞいっこう見当りませんでした。間々《まま》女子供の声は聞えましたが、いったいにひっそりとして、格別の手配りがあろうとも思われず、風説はただ風説にすぎないかと存ぜられました」
「なるほど」と、忠左衛門は大きくうなずいた。「だいたいわれらが考えていたとおりであるな」
「さようでございます」と、小平太はさらに語《ことば》を継《つ》いだ。「で、戻路《もどり》にはせめてもと存じまして、長屋の位置を見がてら、その家紋を読んでまいりましたが、だいたい表通りに向った一棟《ひとむね》と、南側に添うた一棟と、総長屋は二棟に別れておりまして、戸前の数は三十あまり四十戸前もございましょうか。そのほかに家老小林の住宅《すまい》は、別に一軒建ちになっておりました」
「いや、よく気がつかれた」と、忠左衛門は相手の労を犒《ねぎら》うように言った。「これで邸内の防備に対するだいたいの見当もついた上に、当夜出会いそうな相手方の人数もほぼ分ったというものだ。太夫《たゆう》に申しあげたら、さぞ喜ばれるじゃろう。小平太どの、大儀でござったな」
「ついては、横川、お身ひとつその文箱を茶坊主の許《ところ》へとどけてくれんか」と、安兵衛はそばから口を出した。「これは貴公でないといかんからな」
「心得ました。さっそくとどけることにいたしましょう」
「そうだ」と、忠左衛
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