さに同志を裏切る気にもなれなければ、またそれだけのあつかましさも持合せていない。
「なに、俺一人で死ぬのじゃない」と、彼はしばらくしてようよう乾燥《かっぱしゃ》いだような声で呟《つぶや》いた。「死ねば皆いっしょに死ぬのだ!」
 こう自分で自分に言って聞かせてから、何人《だれ》も見ていたものはなかったかと心配するように、そっと眼を上げてあたりを見廻した。気がついてみると、じっとりと頸筋《くびすじ》のまわりに汗を掻いて、自分ながら顔色の蒼醒《あおざ》めているのがよく分った。
 その後も、小平太はできるだけ自分の心の動揺《どうよう》を同志の前に隠すように努《つと》めた。もっとも、彼が同志に心のうちを覚《さと》られまいとするには、もう一つほかに理由があった。それは彼に一人の情婦《おんな》があったからだ。亀井戸天神の境内《けいだい》で井上源兵衛の娘おしおに出逢って、あわれな身の上話を聞いてからというもの、宿へ帰ってもその女のことが気になって、どうも心が落着かなかった。で、明くる日はさっそくわずかばかりの手土産を持って、かねて聞いておいた七軒長屋に母親の病気を尋ねてみた。が、行ってみると、聞いたよりはいっそう惨《みじ》めで、母親は持病の痛風で足腰が立たず、破れた壁に添うて寝かされたまま、娘が茶店の隙間《ひま》をみては、駈け戻って薬餌《やくじ》をすすめたり、大小便の世話までしてくれるのを待っているというありさまであった。あまりの気の毒さに、小平太はその後もちょくちょく見舞いに寄ったが、若い者同志とて、いつしか二人の間に悪縁が結ばれてしまった。小平太にしてみれば、母娘に対する同情から出たとはいえ、大事を抱えた身の末の遂《と》げないことはよく知っている。悔恨と愛慾とは初めから相鬩《あいせめ》いだ。が、女の方では、そんなこととは知らないから、世にも手頼りない身の盲亀《もうき》の浮木に逢った気で、真心籠めて小平太に仕《つか》える。小平太もそうされて嬉しくないことはない。同志に隠れて、使走りの廻道をしては、夕方からこそこそと妙見堂の裏手へはいって行く。夜分どうしても都合の悪い時は、茶店へ顔を見に行く。そういうおり、彼はいつでも上方における大石の廓通《くるわがよ》いのことを想いだして、自分で自分に弁解《いいわけ》をした。もちろん、頭領がしたから自分も遣っていいというのではない。ただ内蔵助が茶屋酒に酔い痴《し》れながら、片時《へんじ》も仇討のことを忘れなかったように、自分も女のために一大事を忘れようとは思わない。それだけにしばしの不埓《ふらち》は容赦《ようしゃ》されたいというのが、せめてもの彼の願いであった。そして、暇《ひま》さえあれば、足は柳島の方へ向った。

     四

 ところが、おしおの母親は、十一月の半ばから陽気のせいか、どっと重態《じゅうたい》になって、娘の精根を尽した介抱も甲斐なく、十日余りも悩みに悩んだあげく、とうとう死んで行った。おしおは身も浮くばかりに泣いた。そばにいた小平太も、母親がわが身の苦しさも忘れて、息を引取る間ぎわまで、「おしおのことを頼む頼む」と言いつづけにしたことを思うと、何だか目に見えぬ縄《なわ》で縛《しば》られているような気がして、ぼんやり考えこんでしまった。が、これまでの行きがかりからいっても捨ててはおかれないので、同志の前は大垣の支藩戸田|弾正介氏成候《だんじょうのすけうじしげこう》の家来で、彼には実兄にあたる山田新左衛門の許《ところ》に世話になっている母親の病気と繕《つくろ》って、二日ばかり同宿の家を明けて、型ばかりの葬式でも出させるようにした。
 で、それがすんでからいったん宿へ帰ったが、気になるので、一日置いてまた出かけてみた。おしおはもう片時《かたとき》も小平太のそばを離れない。「どんな苦労でも厭いませぬから、どうかわたしをおそばへ引取ってくださいませ。一人の母にさえ別れては、こうしているのが女の身では心細うてなりませぬ」と、男の膝《ひざ》に縋《すが》ってかき口説《くど》いた。
「そう言《い》やるのももっともじゃが、わしも今では他人の家に厄介《やっかい》になってる身……」
「では、どうぞあなたがここへ引移ってくださいませ。こんな穢《むさ》い所でお気の毒ですが、たとい賃仕事《ちんしごと》をしてなりとも、わたしはわたしで世過《よす》ぎをして、あなたに御迷惑は懸けませぬ」と、女の腰はなかなか強い。
 これには小平太も当惑した。心の中では、こうしてだんだん身抜きのできない深みへはまってきた自分の愚しさが、何よりもまず悔《く》いられた。が、今となってはどうにもしかたがないので、一時|遁《のが》れの気休めに、
「それもそうだが、わしもいつまで浪人をしているつもりでもない。戸田様に御奉公をしている兄にも頼んで、方々へ渡りがつけてあるから、近いうちには何とか仕官《しかん》の途《みち》も着こうかと思っている。その前に内密《ないしょ》でそなたといっしょにいることが、骨折ってくれている兄にでも知れたら悪い。たとい一合二合の切米《きりまい》でなりとも、主取《しゅど》りさえできたら、きっと願いを出して、表向きそなたを引取るようにするから、それまでのところは、寂しかろうが、このまま御近所の世話になっていてもらいたい。あんまり引っこんでばかりいては、気もくさくさするだろうから、初七日《しょなぬか》でもすんだらまた茶店へも出るようにしたがいい。なに、それも永いことではない。わしも暇さえあれば、ちょくちょく会いに来るからね」と、さまざまに言い拵《こしら》えて、やっと相手を納得させた。
 で、その日の七つ下《さげ》りに、小平太は屈托《くったく》そうな顔をしながら、ぼんやり林町の宿へ戻ってきた。すると横川勘平が待ち構えていて、相手の顔を見るなり、
「おお水原か、いいところへ戻ってきた。貴公でなくちゃできない仕事がある」と、いきなり言いだした。そばには安兵衛の長左衛門も居合せて、何やら事ありげな様子に見えた。
「何だ何だ?」と、小平太も心のうちを見透《みすか》されまいと思うから、わざと威勢よく二人のそばへ顔を寄せて行った。
「じつはあの両国の橋の袂《たもと》にいる茶坊主|珍斎《ちんさい》な」と、勘平は声を潜《ひそ》めてつづけた。「あいつはいつかも話したとおり例の山田|宗※[#「彳+扁」、第3水準1−84−34]《そうへん》の弟子で、やはり卜《ぼく》一(上野介の符牒《ふちょう》)の邸へ出入りをしている、茶会《さかい》でもある時は、師匠のお供《とも》をして行って、いろいろ手伝いもしているという話だから、またなにか聞きだすこともあろうかと、この間からそれとなく取入っておいたがね、今日はからずそいつの手から卜一の家老小林平八郎に宛てた書面を手に入れたんだよ」
「ふむふむ!」
「つい今の先のことだ、ぶらりとはいって行くと、これはいいところへ来てくれた、また一筆頼むと言うじゃないか。なに、この坊主がお茶はできるかしらんが、無類の悪筆でね。これまでも二三度頼まれたことがあるから、おやすい御用と引請《ひきう》けて、さて宛名はと聞いてみると、小林だ。しめた! とは思ったが、色にも出さず、相手の言うままに認《したた》めた上、自分もあちらの方面に所用があるから、何なら私が届けて進ぜましょう、御返事があるようならまた房路《もどり》にと、うまく言って使者《つかい》まで請合ってきた。それはいいが、何しろ俺はこの前あの邸へはいりこんで、うろうろしているところを掴《つか》みだされた覚えがあるから、二度とあそこへは行かれない。と言って、長左衛門どのでは顔が売れているから、どうも目に立つし、気はせきながらも、貴公の帰りを待っていたのだ」
「そうか」と、小平太はぐっと固唾《かたず》を呑み下しながら言った。「よし、それでは俺が引請けた」
「うむ、しっかり遣《や》ってくれ」
「心得た。で、念のために聞いておくが、この手紙の用件は?」
「いや、それは何でもない。かねて小林から頼まれていた品が見つかった。いずれ近日持主同道で持参するからよろしくというだけだ。いずれ茶器か何かのことだろうよ。だが、貴公は何にも知らない体《てい》で、ただ使者《つかい》に来たようにしておいた方がいい」
「それもそうだな」
「とにかく、またと得られない機会だ」と、勘平はさらに自分の注文をつづけた。「できるだけ邸内の様子を細かに見てきてもらいたい。近ごろ長屋と母屋《おもや》との間に大竹の矢来を結《ゆ》い廻して、たとい長屋の方へ打入られても、母屋へは寄りつかれないようにしてあるという噂《うわさ》も聞くが、このごろはあちらでもお出入り以外の物売はいっさい入れないようにしているから、最近の様子はさっぱり分らない。そのへんも十分見届けてきてもらいたいな」
「それに」と、安兵衛もそばから言葉を添えた。「かねがね山田宗※[#「彳+扁」、第3水準1−84−34]のところへ弟子入りをしている脇屋氏《わきやうじ》(大高源吾のこと、京都の富商脇屋新兵衛と称して入りこむ)から、吉良邸では来月の六日に年忘れの茶会があるという内報もあった。すれば、五日の夜は必定《ひつじょう》上野介在宿に極《きわ》まったというので、討入はおおよそその夜のことになるらしい大石殿の口ぶりでもあった。だが、頭領としては、その前にもう一度邸内の防備の有無を見定めておきたいと言われるのだ。で、もしお手前の働きでそのへんの事情が確実に分ったら、吾々が待ちに待った日もいよいよ近づいたというものだ。大切《だいじ》な役目だ、しっかり遣ってきてもらいたい」
「心得ました」と、小平太はそれを聞いて、きゅうに胸をどきつかせながらも、きっぱり返辞をした。
「くれぐれも仕損じのないようにな」と、安兵衛はなお念を押すように言った。「この場になってしくじったら、それこそ大事去るだ! その心得で遣ってきてもらいたい」
「よく分っております」と、小平太も緊張にやや蒼味を帯びた顔を上げて言った。「万一|見咎《みとが》められるようなことがありましょうとも、一命に懸けて御一同の難儀になるようなことはいたしませぬ」
「その覚悟で行けば、しくじることもあるまい。だが、見破られないうちに、こちらの思う所を見てくるのが肝心《かんじん》だ。くどいようじゃが、その心得でな」
「畏承《かしこま》りました」
 小平太はすぐに身支度をして、例の状箱を受取って立ち上った。何と思ったか、勘平も後から追い縋《すが》るように送ってでて、
「長左衛門どのの言われるとおり、向うの様子がもう少し知れないと、迂濶《うかつ》に手は出せないという頭領始め領袖方《りょうしゅうがた》の御意見だ。しっかり遣ってきてくれ」と、皮肉らしく小声でささやいた。「その代りに、うまく行ったら当夜の一番槍にも優る功名だぞ」
「うむ!」とうなずいたまま、小平太は黙って表へ飛びだした。

     五

 小平太が進んでこの危い役割を引請《ひきう》けたのは、一つは心のうちを見透《みすか》されまいとする虚勢《きょせい》からでもあったが、一つにはまた、ここで一番自分の働きぶりを見せて、中田理平次なぞとはまるで違った人間だということを同志の前にはっきり証拠立てておきたかったからでもあった。いや、同志の前というよりは、第一自分の前に証拠立てたかった。だって、小平太の心を疑っているものは、何人《だれ》よりもまず彼自身であったから! そこで彼は与えられた機会を、よく考えてもみないで、しゃにむに掴《つか》んでしまった。が、一党に対する責任を思えば、安兵衛から注意されるまでもなく、この任務はあまりにも重かった。もし怪しい奴と睨《にら》まれて、町奉行の手にでも引渡されたら……そして、どうしても密事を吐かねばならぬような嵌目《はめ》に陥《おちい》ったら……
「そんなことにでもなれば、俺一人ではない、一党の破滅だ!」と、考えただけでも足の竦《すく》むような気がして、彼は思わず街《まち》の上に突立ってしまった。
 が、それとともに、「一命に懸けても」と二人の前に誓
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