った。
が、しばらくして、彼はまたむっくり顔を上げた。月は依然《いぜん》として照っていた。が、その月も彼の眼には入らなかった。
「だが、俺はそんなに臆病者かしら?」と、彼はぼんやりあたりを見廻しながら呟いた。「俺はとにかく万死を冒《おか》して吉良邸へ入りこんだこともある。そして、当夜の一番槍にも優る功名ぞと、仲間の者から称美されるほどの手柄も立てた。しいて言えば、今夜の討入も俺の探索のおかげで極ったとも言われないことはない。それほどの手柄を立てた俺が、こんなことになってしまった。一生世間へ顔出しもできない卑怯者になってしまった。なぜだ? なぜだか俺にも分らない!
「いや、分らないことはない」と、彼は自分で自分に反抗するようにつづけた。「俺にはちゃんと分っている。なるほど、吉良邸に入《い》りこむということは、九死に一生の危険を冒したものかもしれない。が、九死に一生でも、一生は一生だ。十が十の死ではない。そこに一つだけは、とにかく、生きられるかもしれないという宛がある。俺はその一つを宛にして吉良邸に入りこんだのだ。あの場合、俺はけっして本当に死ぬ覚悟なぞしてはいなかったのだ。けれども、今夜吉良邸へ斬《き》りこんだら、それこそ本当に十が十の死だ! 公儀の手に召捕《めしと》られて、お仕置場《しおきば》へ引きだされたら、どんなことがあっても免《のが》れようはない。牛や馬のように、首玉へ縄《なわ》を結《いわ》えつけておいて、むざむざと屠《ほふ》られるのだ。それはあまりに怖ろしい、あまりに人間性を蔑《ないがし》ろにしたものだ。そんな怖ろしい犠牲《ぎせい》を主君は家来に向って要求することのできるものだろうか。家来に扶持《ふち》を与えておけば、その家来からそんな人間性を奪うような犠牲を要求してもいいのか。なに、殿の御馬前に討死せよというのなら、俺は立派に死んでみせる。けれども、けれども、今夜吉良邸へ討入ることだけは、俺にはできない、俺にはどうしてもできない!
「なに、ほかの連中は皆忠義の士と言われたさに、名という餌《えさ》に釣られて、眼を瞑《つぶ》って死の関門へ飛びこもうとしているのだ。眼を瞑って死の関門へ飛びこむことは易い。難かしいのは、それよりも死の関門に到るまでの道程だ。死の関門を正視しながら、眼を開いてその中へ飛びこむだけの用意をすることだ。俺はこれまでそのためにあらゆる苦しみを嘗《な》めてきた。死に到る道程の全部を歩いてきた。全部を経験してきた。それは同志の中の何人《なんびと》も知らないような焦熱地獄《しょうねつじごく》の苦しみであった。おお、俺はそれだけでも許さるべきではないか。他人は何とも言わば言え、俺は俺自身に対して言訳が立つのではあるまいか」
こう考えてきた時、彼にはそれが動かすべからざる真理のような気がして、やや落着いてきた。で、雪の積った街路の上をじっと見詰めていたが、何と思ったか、またふらふらと立って歩きだした。
「考えてみれば」と、彼はまた歩きながら呟《つぶや》いた。「横川も言ったように、頭領大石が討入の日をこんなに延び延びにされたのもよくない。俺が死の苦しみを日々に嘗《な》めてきたのも、そのためだ。最後にこんなことになってしまったのも、そのためだと言わば言われないこともない! もし仇討《あだうち》がこの春決行されたら、百二十余名の同志があったはずだ。七十名に余る落伍者《らくごしゃ》の中には、俺と同じように苦しんだものもあったに相違ない。それをいちがいに不忠喚《ふちゅうよば》わりするのは当を得ない」
彼は在来の落伍者のためにも弁ぜずにはいられなかった。が、その下から、在来の落伍者と自分とを同じように見るということが、何となく彼の反感を唆《そそ》った。
「だが」と、彼はまたすぐに考えなおさずにはいられなかった、「仇討の連盟が百二十余名に達した時、ただちにそれを決行したら、なるほど百二十余名の者が一列に死についたかもしれない。百二十余名は立派だが、その中にはまだ本当に死の覚悟のできていないものもあったに相違ない。そういう生半可《なまはんか》のものを引連れて、吉良邸へ乗りこむということは仇討の美名の下《もと》に、一種の悪事を行うようなものではないか。死にたくないものを死なせる――というよりも、仇討に値いしないものを引率して仇討をするということが、悪事でなくて何であろう! よし吉良邸へ乗りこむことはできても、それでは御主君冷光院殿の前へは出られまい。そんな者の来ることを御主君は喜ばれないに相違ない。頭領はそこを考えていられた。いや、大石殿がそこまで意識していられたかどうかは分らないが、故意《こい》にしても偶然にしても、とにかく仇討を延び延びにすることによって、そういう生半可なものをすぐり落された、籾《もみ》と糠《ぬか》とを選《え》り分けられた。つまり俺もその試練に堪えないで篩《ふる》い落されてしまったのだ。俺は糠であった、これまでの落伍者と同じように糠にすぎなかったのだ!」
彼は押潰《おしつぶ》されたように、へたへたと雪の中に倒れてしまった。
「そうだ、俺は糠だ、糠にすぎない! 今夜討入った同志が真実《ほんとう》の籾であったのだ。あの連中だとて、俺のような苦しみを嘗《な》めなかったとは、どうして言われよう? 彼らはよくその試練に堪えて、自分が籾であることを立証したばかりだ。俺は生れながらに実《みの》らない糠であった。そして、永遠に救われない地獄《じごく》の鬼となってしまった」
彼は自分で自分の頭を打って、雪の中を転げ廻った。そして、「糠だ、糠だ!」と叫びながら、身体が痙攣《ひきつ》るようにのた[#「のた」に傍点]打ち廻った。
「そうだ」と、そのうちにふと頭を擡《もた》げた。「そうだ、まだ晩《おそ》くはない。これからすぐに駈けつけよう! 吉良邸へ駈けつけて、まだ一党が引上げないうちであったら、同士に詫びて、せめて公儀へ召しあげられる囚人《めしゅうど》の中へでも入れてもらおう!」
そう決心するとともに、彼は立ち上ってよろよろと駈けだした。が、一丁ばかり駈けだした時、またよろよろと雪の中に倒れてしまった。そして、もう二度とは立ち上らなかった。
十三
明くる日は雪晴れのうらうらした日和《ひより》であった。その日一日じゅう、小平太はどこをどう歩いていたのか、人も知らず、おそらく自分でも分らなかったに相違ない。とにかく、江戸の市中を、喰うものも喰わず、喪家《そうか》の狗《いぬ》のように、雪溶けの泥濘《でいねい》を蹴たててうろつき廻っていた。そして、その暮方に、憔悴《しょうすい》しきった顔をして、ぼんやり両国の橋の袂《たもと》へ出てきた。
見ると、橋の袂の広場に人簇《ひとだか》りがしている。怪しげな瓦版《かわらばん》売りが真中に立って、何やら大声に呶鳴《どな》っているのだ。――
「さあさあ、これは開闢《かいびゃく》以来の大仇討、昨夜本所松坂町吉良上野介様の邸《やしき》へ討入った浅野浪士の一党四十七人、主《しゅう》の仇《あだ》の首級《しるし》を揚げて、今朝《こんちょう》高輪の泉岳寺へ引上げたばかり、大評判の大仇討! 忠義の侍四十七人の名前から年齢《とし》まで、すっかり分って、ただの三文! ええ、大評判の大仇討、もうこれだけしかない、売れきれぬうちにお早く、お早く!」
「吉良……浅野浪士!……」という声が耳に入った時、小平太は思わず足を留めた。そして、群集の頭越しに、喚売《よびうり》の男の顔をじっと穴の開くほど見詰めていたが、何と思ったか人込みを分けて、つかつかと前へ進み出で、
「おい呼売、一枚くれ!」と喚《よ》んだ。
「へえありがとうさま、一枚! もう後は五六枚しかありませんよ」
彼は手に掴《つか》んだ小銭を渡して、それを受取るなり、群集の眼を恐れるように、こそこそと薄暗い横丁へはいって行った。ひろげてみると、なるほど大石内蔵助をはじめ寺坂吉右衛門に到るまで――中にはもちろん間違ったのもあるが――同志の名をずらりと並べて、この方々は、去年三月殿中において高家の筆頭吉良上野介に斫《き》りつけ、即日切腹、お家断絶となった主君浅野内匠頭の泉下の妄執《もうしゅう》を晴さんために、昨夜吉良邸に乗こんで、主君の仇上野介の首級《しるし》を揚げ、今朝泉岳寺へ引取って、公儀の大命を待っている。お上ではただ今老中方御評議の真最中だと、事の概略《あらまし》が載《の》せてある。
「さては首尾よく仇を討たれたか……そして、予定のごとく泉岳寺へ……」
彼はその華々《はなばな》しい進退行蔵《しんたいこうぞう》を目の当り見るような気がした。堀部安兵衛|武庸《たけつね》の名も出ている、横川勘平宗房の名も出ている。が、毛利小平太の名は? もちろん、そこに出ていようはずはない。彼は義士たちの明るい功名を想いやるにつけて、いよいよ自分の眼の前が暗くなるような気がした。
「どうしよう、俺はどうしよう?」
こう呟きながら、彼は手を負った獣のように走りだした。が、どこへ行く宛もない。両国の橋を渡れば、もうじきそこが松坂町の吉良邸である。彼はそこへ近づくことを一番恐れているくせに、やっぱりここへ来てしまった。が、今ごろそこへ行って何になろう?
「ああ、俺はもうどこへも行く所がない!」
もちろん、彼にはまだおしおの家があった。が、こうなった上は、もうおしおにも逢われる身ではない。今ごろ顔を見せたら、あの女がどんなに落胆《がっかり》して、どんなに泣くことであろう! 事によったら、自分を軽蔑するあまり、物をも言わずに突き出してしまうかもしれない。
で、女にも逢われないとすれば、小平太はいったいどこへ行くのだ? 逢われない逢われないと思いながら、彼の足はやっぱり柳島の方角へ向っていた。あれだけ近寄るのを恐れていた両国の橋を渡ったのも、考えてみれば、やっぱりおしおに逢いたさの一念からであった。
彼はいつの間にか妙見堂の裏手まで来ていた。雪明りに透《すか》しておしおの家が眼にとまった時、彼はぎくりとしたように足を駐《と》めた。そして、ためらうように窓の明りを眺《なが》めていたが、きゅうに足を旋《めぐ》らして二歩三歩帰りかけた。が、すぐにまた踏みとどまって、
「そうだ、これを最後に逢いに来たのだ。せめてよそながらでも顔を見て行こう」と呟《つぶや》いた、そして、考えなおしたように、また女の家に近づいて行った。が、すぐに戸口をはいろうとはしないで、積った雪を踏んで裏手の方へ廻ってみた。おしおの家の裏手には長屋じゅうで使うようになっている釣瓶井戸《つるべいど》があった。小平太はそのそばに立って、月影を避けるようにしながら、じっと家の中に耳をすました。が、家の中はしんとして物音一つしない。そのうちに、窓の障子《しょうじ》に女の影が射して、それが消えたかと思うと、「ちーん!」と鈴《りん》の音が聞えてきた。
「そうだ、今日はおしおの母の三七日《みなぬか》だ! 仏壇にお灯《ひ》でもあげているのだな」
が、おしおは下に坐ったまま、なかなか立ち上らない。小平太は窓のそばへ寄って覗《のぞ》いてみようかとも思ったが、長屋の者が水汲《みずく》みにでも出て、見つけられたらというような気がして、じっと我慢して立っていた。が、たまらなくなって、一歩ずつだんだん裏の戸口に近づいた。そして、そっと戸の隙間から覗《のぞ》いてみようとした時、不意におしおの立ち上る気はいがした。どうもこちらへ近づいてくるらしい。小平太は思わず一歩後へ退ったが、もう晩《おそ》かった。女は何の気もなくがらりと裏の戸を開けた。そして、思わぬ人の影に、「あっ!」と吃驚《びっくり》したような声を上げた。それでも気丈な女だけに、手燭《てしょく》を上げて、おずおず相手の顔を見遣りながら、
「まあ、旦那様でしたか。こんな所に立っていらして、本当に吃驚《びっくり》しました!」と言いだした「いったいどうなすったのでございます?」
小平太は棒立ちになったまま、返辞もしなければ、また動こうともしなかった。
「今ごろお出
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