でになろうとは存じませんので、一人で仏壇にお灯明《あかし》をあげていたところでした。さあ、どうぞこちらへおはいりくださいませ」
こう言いながら、おしおは先に立って家の中へはいろうとした。
「はいってもいいね?」と、小平太は始めて口を利《き》いた。
「まあ、何をおっしゃいますことやら、あなたのお家ではござりませぬか」と、おしおは手を取るようにして男を座敷へ上げた。それから行灯《あんどん》を持ちだして、小平太の前に手をつかえながら、あらためて挨拶《あいさつ》をした。「もう二度とはお目に懸れぬようにおっしゃってでしたのに、今ごろお出で遊ばしたのは、ああ分った、お話しのことはまたぞろ日延べになったのでござりましょうね?」
小平太は苦しそうに、ただ「いいや」とばかり頭振《かぶ》りを棹《ふ》ってみせた。
「へえ? 日延べにはならぬ。では、もう討入はすみましたかえ」と、おしおは思わず膝《ひざ》を乗りだしてたずねた。
小平太はまた苦しげにうなずいてみせた。
「討入はすんだ! それに今ごろここへお出でになったのは?」と、おしおはいよいよ合点《がてん》が行かなそうに、男を見返した。
「おしお、もう何にも言ってくれるな」と、小平太は相手の顔を見ぬように、目眩《まぶ》しそうに眼を反《そら》しながら言った。「わしは、わしは討入《うちいり》の数に漏《も》れたのだ!」
「ええッ!」と、おしおは思わず身をのけ反《ぞら》したが、また気を取りなおしたように、男の前へ詰め寄りながら、「討入の数に漏れた……とおっしゃるからには、やっぱりまだわたしに未練が残って……?」
小平太はやっぱり押黙ったまま俯向《うつむ》いていた。
おしおは男の膝に取りついて、「わたしいわれに、大切《だいじ》の場合にあなたに後《おく》れを取らしたとあっては……わたしは生きている瀬がない……あの時も早う死のうと思ったに、あなたのお言葉に絆《ほだ》されて、生き残ったがわしゃ口惜しい! どうしよう、わしゃどうしよう?」と、おろおろ泣きだしてしまった。
「いや、そうでない、そうでない!」と、小平太はさも苦しそうに顔面神経を引釣《ひきつ》らせながら、ようよう口を切った。「この前来た時、お前に未練があって死にきれないように言ったのは、ありゃわしの嘘じゃ。わしはやっぱり自分の命が惜しかったのだ。命惜しさに、どうしても死ぬ覚悟ができなかったのだ。おしお、堪忍《かんにん》してくれ、俺はこういうやくざな臆病者に生れついたのだ!」
おしおは思いも懸けぬ男の言葉に、ただもう訳も分らぬような顔をして、相手の顔を見返していた。
「ただ俺はこの臆病な心に打克《うちか》って、立派に死んでみせようと、どれだけ心を砕《くだ》いたことか。お前を手に懸けようとしたのも、そなたに未練があるというよりは、せめてお前でも殺したら、もう後へは退《ひ》かれぬようになって、未練なわしの心にもどうぞ死ぬ覚悟がつこうかと、それを恃《たの》みにあんな真似《まね》をしてみたのだ。が、生れついて臆病なわしには、さあ殺せと身体を突きつけられては、手も下せず、せめて大石殿に二人の仲を打明けて、こうこういう訳だと申しあげてしまったら、その打明けたということが力になって、義理にも後へは退かれまいと、またそれを恃《たの》みに帰って行った。が、明くる日大石殿に逢ってみると、大事を挙げる前日とて、そんなつまらぬことを言いだす暇もなく、すごすご戻ってきたのが破滅の原因《もと》、それからはいっそう心がぐらついて、昨日《きのう》の夕方宿を出たきり、宛もなく町中《まちなか》をぶらついている間《ま》に、だんだん約束の刻限を切らして、大事の場合に間に合わず、わしはとうとう世間へ顔の向けられない身となってしまった。おしお、これを見てくれ、これを!」と言いながら、袂《たもと》からさっき両国の橋の袂《たもと》で買った瓦版《かわらばん》を取りだして渡した。
「そこにもあるように、わしを除いた四十七人は立派に上野介の首級を上げて、泉岳寺へ引上げ、お上のお仕置《しおき》を待っていられる。わしはその仲間に外れた。その仲間に外れたばかりでなく、人間の仲間からも外れてしまった!」
こう言って、小平太は男泣きにしくしく泣きだしてしまった。
おしおは渡された紙片《かみきれ》をひろげて、行灯の灯影に透して見たが、なるほど四十七人の名はあっても、小平太の名は出ていない。彼女はそれを手に持ったまま、そこに泣き崩《くず》れている小平太の姿と見較べていたが、恥も見得《みえ》も忘れて、心の底を曝《さら》けだした男の意気地なさに、ただもう胸が迫るばかりで、何とも言うことができない。怺《こら》えに怺えた涙が胸に痞《つか》えて、
「ひ、ひ、ひ――ッ!」と、これもその場に泣き伏してしまった。
小平太はその泣声にむっくり顔を上げた。そして、しばらく女の打顫う胴体を見入っていたが、何と思ったか、
「おしお、さらばじゃ!」と言ったまま、すっくと立ち上った。
おしおも吃驚《びっくり》して顔を上げた。
「血相変えて、今ごろどこへ行きなさんす?」
「どこへという宛もない」と、小平太は立ったまましおしおとして言った。「わしはただ、よそながらでもお前の顔が見たさに、恥を忍んでここまで来たばかりだ。わしはもうお前の良人と呼ばれる値打はない。お前もわしのようなものと縁を結んだのが因果《いんが》じゃと諦《あきら》めてくれい。こうしてお前の顔を見たのをせめてもの慰めに、わしはただわしの行く所へ行くつもりだ!」
「まあまあ待ってくだされ」と、おしおは立って小平太の袖《そで》に取縋《とりすが》った。「お前がそのように言わんすのももっともじゃ。もっともじゃが、わたしはわたしでまだ言うことがある。まあまあ下に坐《い》てくださんせいなあ」
言われるままに小平太はふたたびなよなよと下《しも》に坐った。おしおはその膝に取縋って、涙を持った眼に下からじっと男の顔を見上げながら、
「今お前は俺のようなものと縁を結んだのが因果じゃと言わんしたが、ほんに思えば、因果同志の寄合でござんすぞえ」と、しんみりと言いだした。「どんな男でも良人に持てば、わたしはお前の女房じゃ。お前が卑怯なら、わたしも卑怯、お前が臆病者なら、わたしも臆病者でござんす。女一人で身は立てられぬ。たとい世間で笑われようが、どうしょうが、わたしはどこまでもお前に随《つ》いて行く……行きますわいなあ」
二人はいつかいっしょに固く手を取合っていた。
「わたしはそういう気じゃほどに、かならず短気な心を出したり、悒々《くよくよ》してわずらわぬようにしてくださんせ。なに、お江戸ばかりに日は照りませぬ。もし世間の笑いものになって、ここで生きて行かれぬというなら、唐《から》天竺《てんじく》の果《はて》までも、いっしょに行く気でおりますわいな」
「よう言うてくれた、よう言うてくれた!」
小平太は握《にぎ》った女の手の甲の上に、はらはらと涙を落した。
「それでもまだ笑う者があったら、是非《ぜひ》がない、二人でいっしょに笑われましょう。どこまでも一人の男を守るのが女の道でござんすぞえ」
× × × ×
二人はなお夜を籠《こ》めて語り明した。が、その夜のまだ明けきらぬうちに、二人手に手を取って、日の光を恐れるもののように、いずくともなく姿を晦《くら》ましてしまった。
底本:「日本文学全集18 鈴木三重吉・森田草平集」集英社
1969(昭和44)年9月12日発行
入力:土屋隆
校正:浅原庸子
2006年10月16日作成
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