と激励《げきれい》の言葉でも受けようと思っていたのに、かえってこちらの勇気を挫《くじ》かれたばかりか、あんな一時|遁《のが》れの嘘まで吐かなければならぬ嵌目《はめ》に陥《おちい》ってしまった。といって、それを幸いに、その嘘を真実《ほんとう》にしようなぞという気はもうとう起らなかった。彼にはあまりにも自己本位な兄の性根がありありと見え透《す》いていた。
「そうだ、兄が本当に主家を憂うる真心から、ああ言って俺に迫ったのなら、俺はこのまま兄の言うことを聞いて、同志を裏切るような気になったかもしれない。危殆《あぶな》い、本当に危殆《あぶな》いところだった」
 そう思いながらも、いっこうその兄に対する反撥心《はんぱつしん》の起らぬのが、自分でも不思議でならなかった。彼は心のうちのどこかで兄を是認《ぜにん》していた。しかも、それを突詰めてみることは、彼には怖ろしかった。
 彼はただ何とも言われない侘《わび》しさと寂寥《せきりょう》とを感じて、とぼとぼと街の上を歩いていた。

     八

 林町の宿へ戻った時は、まだ日が高かった。同宿の者はたいてい出払って、一人小山田庄左衛門が人待ち顔にぼんやり
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