小平太は黙って相手の顔を見返した。
「俺たちには年を取った母親もある」と、新左衛門は気が指したのか言いなおした。「わしにも大切《だいじ》な阿母《おかあ》さんなら、お前にとっても一人の母親だ。この老母を路頭に迷わせるようなことがあってはならぬからな」
「ごもっともでございます」と、小平太も母親のことを言われた時は一ばん身に染みた。「ただこれまで事をともにしてきた関係上、にわかに同志に背を向けるようなこともいたしかねますが、近々のうちには機を見て身を引くことにして、けっして兄上と番《つが》えた言葉は違《たが》えませぬから、その段はどうぞ御安心ください」
「それでやっと安心した。なに、お前の立場の苦しいことは、わしも察している。ただくれぐれもその言葉を違えまいぞ」
 小平太は唯々《いい》として頭を下げた。それから二三話しもしていたが、長居は無用と思ったので、いずれそのうちまた出なおしてくるからと言いおいたまま、そこそこにその家を出てしまった。
 街の上へ出た時、彼は自分で自分が分らなくなるほど顛動《てんどう》していた。彼が予期したことはまるで反対の結果になった。兄に打明けて、兄から同情
前へ 次へ
全127ページ中52ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森田 草平 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング