三月主君|浅野内匠頭《あさのたくみのかみ》、殿中《でんちゅう》にて高家《こうけ》の筆頭|吉良上野介《きらこうずけのすけ》を刃傷《にんじょう》に及ばれ、即日芝の田村邸において御切腹、同時に鉄砲洲の邸はお召《め》し上《あ》げとなるまで、毛利小平太は二十石五人|扶持《ぶち》を頂戴《ちょうだい》して、これも同志の一人大石瀬左衛門の下に大納戸係《おおなんどがかり》を勤めていた。当時年は瀬左衛門より一つ上の二十六歳であった。その後|赤穂《あこう》城中における評議が籠城《ろうじょう》、殉死《じゅんし》から一転して、異議なく開城、そのじつ仇討《あだうち》ときまった際は、彼はまだ江戸に居残っていたので、最初の連判状には名を列しなかった。が、その年の暮に大石内蔵助が、かねて城明渡しの際|恩顧《おんこ》を蒙《こうむ》った幕府の目附方へ御礼かたがた、お家の再興を嘆願するために、番頭《ばんがしら》奥野将監《おくのしょうげん》と手を携《たずさ》えて出府《しゅっぷ》した際、小平太は何物かに後から押されるような気がして、内蔵助の旅館を訪《たず》ね、誓書《せいしょ》を入れて義徒の連盟に加わった。何物かとはいわゆる時代の
前へ 次へ
全127ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森田 草平 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング