手前もごらんのとおりの身の上、その御遠慮にはおよびませぬわい」と、小平太はちょっと袖のあたりを振返りながら、わざとらしく笑ってみせた。こんな風に身を落してこそおれ、今に見よ、同志揃って吉良邸に乗りこみさえすれば、主君の仇を討った忠義の士として、世に謳《うた》われる身だというような意識がちらと頭の中を翳《かす》めたのである。
「それに」と、彼はまた何気なくつづけた。「あのへんは手前もちょくちょく参りますから、また通りがかりに寄せていただくこともございましょう。どうかお帰りになったら、小平太がよろしく申したと、母御にお伝えくだされい」
 まだ何やら訊いてみたいような気もしたが、人目を惹《ひ》くのがいやさに、小平太は茶代を払って、そこそこに茶店を出てしまった。年が若いだけに、思わぬ邂逅《めぐりあい》から妙に心をそそられたところへ、女の涙に濡《ぬ》れた顔を見て、大事を抱えた身とは知りながら、ついそれを忘れるような気持にもなったものらしい。夕日を仰いで、田圃《たんぼ》の中の一筋道を辿《たど》りながらも、彼は幾度か後を振返ろうとして、そのたびにようようの思いで喰いとめた。

     二

 去年
前へ 次へ
全127ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森田 草平 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング