れとこれとは話が違う。あの女は一生|己《おの》れを扶助《ふじょ》してくれるはずの良人を失った上に、しかもその良人を誰と名指すこともできない。そして、その名指されぬ良人の子を繊弱《かよわ》い女手一つで育てて行かなければならない――これから先永い永い一生の間! あの女としては、そんな思いをして生きて行くよりも、自分の妻として、公然お上のお咎《とが》めに逢いたかったかもしれない。お咎めに逢って、もしお仕置《しおき》になるものならなって死にたかったかもしれない。それを知りながら、せっかく石町《こくちょう》まで出かけて行って、何にも言わずに還ってきた自分はいったいどうしたというのだろう?
「どうかしたら」と、彼はまた一人で考えつづけた、「俺は太夫にそんな内情まで打明けるが恐ろしかったのではないか。そんな内情まで打明ければ、俺は義理にも太夫に背《そむ》くことができなくなる。もちろん、俺は太夫を裏切るような気はない。気はないが、なおそこに一分の余裕を存《そん》しておくために、わざと太夫に逢わずに帰ってきたのではあるまいか。考えてみれば、兄新左衛門のいきさつを同宿の安兵衛に打明けようとして、とうとう打
前へ
次へ
全127ページ中103ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森田 草平 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング