た。これまで自分の本心を明さないで、始終|欺《あざむ》き通しに欺いてきた上に、最後に自分が死の覚悟をする手段として、相手の女を手に懸けようとする? 俺の心は鬼か蛇《じゃ》か。まったく自分ながら愛憎《あいそ》の尽きた男だ!
 彼は眼を瞑《つぶ》ってその心を払い退けようとした。いっそこのまま女の顔を見ないで引返してしまおうかとも思ってみた。が、そう思っただけで、足はやっぱり向いた方へ歩いて、だんだん女の家に近づいていた。
 何《なんに》も知らないおしおは、例によって愛想よく男を迎えた。
「今夜は少しゆっくりしてもいいように、同宿の者へも頼んできた。晩《おそ》くなったら、ここで泊ってもいいのだ。これでひとつお酒を購《と》ってきてくれ」と、小平太は懐中《かいちゅう》から小粒を一つ出して渡した。
「まあ珍らしい、お酒を召しあがる?」と、おしおは可訝《けげん》そうに相手の顔を見返したが、「でも、ゆっくりしていいとおっしゃるのは嬉《うれ》しい。わたしもじつはこの間から聞いていただきたいと思っていることもある。では、すぐに行って参《さん》じましょ」と、いそいそとして出て行った。
 ものの十分とは経《た》たないうちに、おしおは五合徳利に風呂敷に包んだ皿を提《さ》げて戻ってきた。そして、しばらく台所でこそこそ遣っていたが、間もなく膳の上に肴《さかな》と銚子とを揃えて持ちだした。小平太も火燵《こたつ》から這《は》いだして、膳に向ったが、さされるままに一つ二つと盃《さかずき》を重ねた。日ごろは三杯と飲まぬうちにもう真赧《まっか》になってしまうのだが、今夜はどうしたのやらいくら飲んでも酔いを発しない。薬でも呑むようにぐっと呑み乾しては、そのまままた猪口《ちょこ》を差出すので、
「まあ、そんなに召しあがってようござりますか」と、おしおは注ぎかけた銚子を控《ひか》えて、思わず窘《たしな》めるように言った。
「なに、かまわぬ、注いでくれ」と、小平太は持った盃《さかずき》を突きつけるようにした。
「まあ、泊って行ってもよいとおっしゃるなら、少しはお酔いになってもよかろ」と、おしおは思いなおしたように、またなみなみと注いだ。
 小平太はその盃にちょっと唇をつけたまま、下に置いて、
「さっき言った、わしに話したいというのは、そりゃ何だ?」と、不意に言いだした。
「ええ」と、おしおはみるみる顔を赧《あか》らめながら、「そりゃまあ後でもいいことじゃわいな」と、その場をまぎらそうとした。
「そうか」と、小平太はまた盃を口へ持って行った。「言いたくなければ聞かんでもいい」
 男の顔は蒼味《あおみ》を帯びて、調子は妙に縺《もつ》れかかっていた。
「いいえ、言いたくないことはない。どうしても聞いてもらわにゃならぬことだけれど……」
「じゃ、言ったらどうだ?」
「ええ、あのそれは」と、おしおは口籠《くちごも》りながらつづけた。「いつぞやから、今度逢ったら言おう言おうと思っていましたが、何だかまたよけいな御心配をかけるような気もして……じつは前の月からわたし見るものを見ませんの」
「え?」と、小平太はぎくりとしたように言った。「ではあの、お前が妊娠《にんしん》した?」
 おしおは黙ってうなずいてみせた。
「そうか!」と、彼は太い息を吐《つ》いた。
「でも、まだよくは分りませんのよ」と、おしおは相手の顔色を見て、すぐに言いなおしにかかった。「ただわたしがそう思っただけ……そんなにお気に懸けるのなら、申しあげなければようござんしたのにねえ」
「なに、言ってくれた方がいいんだ」と、小平太は下を向いたまま言った。
「だって心配そうにしていらっしゃるんだものを」
「気に懸けんでもいい。子どもが生れるとなれば、俺もいっそう気が締るというものだ。とにかく、お前にこの上の苦労はさせんから、心配するな。それよりも一杯注いでくれ!」と、また盃を突き出した。
 おしおはちょっと相手の顔を見返したまま、黙ってその盃を充《みた》した。
「心配せんでもいいぞ」と、小平太はまた繰返した。「日ごろ言ったわしの言葉に間違いはないからな。それに間違いさえなけりゃ、お前が気を揉《も》むことはあるまい」
「ええ、それはもうそうに違いございませんけれど……」
「それならもっと注いでくれ、わしは今夜久しぶりに酔ってみたいのだ」
 こう言って、小平太はおしおに酌《しゃく》をさせては、ぐいぐいと飲み干した。そして、一本の銚子が空になると、また二本目までつけさせた。が、二本目を飲みきらないうちに、苦しくなって、そこに倒れてしまった。そして、横になったまま、苦しそうに胸を波打たせていた。おしおは気を揉んで、枕を当てがったり、頭を水で冷したり、いろいろ手を尽して介抱してくれた。それまでは覚えていたが、そのうちに少し胸先《むなさき》が
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