四十八人目
森田草平

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)毛利小平太《もうりこへいだ》は

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)辻版小屋|筋違《すじか》い前

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)宗※[#「彳+扁」、第3水準1−84−34]《そうへん》
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     一

 毛利小平太《もうりこへいだ》は小商人《こあきゅうど》に身《み》を扮《やつ》して、本所《ほんじょ》二つ目《め》は相生《あいおい》町三丁目、ちょうど吉良左兵衛邸《きらさひょうえやしき》の辻版小屋|筋違《すじか》い前にあたる米屋五兵衛こと、じつは同志の一人|前原伊助《まえばらいすけ》の店のために、今日《きょう》しも砂村方面へ卵の買い出しに出かけたが、その帰途《かえりみち》に、亀井戸天神の境内《けいだい》にある掛茶屋に立ち寄って、ちょっと足を休めた。葭簀《よしず》の蔭《かげ》からぼんやり早稲《わせ》の穂の垂れた田圃《たんぼ》づらを眺《なが》めていると、二十《はたち》ばかりの女中がそばへやってきて、
「お茶召しあがりませ」と言いながら、名物|葛餅《くずもち》の皿と茶盆《ちゃぼん》とを縁台の端に置いて行った。
 小平太は片手に湯呑を取り上げたまま、どこやらその女の顔に見覚えがあるような気がして、後を見送った。女の方でもそんな気がするかして、二人の子供を連れた先客の用を聞きながらも、時々こちらを偸《ぬす》み見るようにした。小平太は「はてな?」と小首を傾《かし》げた。が、どうしても想いだせぬので、二度目にその女が急須《きゅうす》を持ってそばへ来た時、
「姐《ねえ》さん、わしはどっかでお前さんを見たように思うが――」と切りだしてみた。
「はい」と、女は極《きま》りの悪そうに顔を赧《あか》らめながら、丁寧《ていねい》に小腰を屈めた。「わたくしも最前からそう思い思いあんまりお姿が変っていらっしゃいますので……もしやあなたさまは元|鉄砲洲《てっぽうず》のお屋敷においでになった、毛利様ではございませぬか」
「して、お前さんは?」
 小平太はぎょっとして聞き返した。
「わたくしは同じお長屋に住んでおりました井上源兵衛の娘でございます」
「ほう、井上殿のお娘御! そういえば、さっきから見たように思ったのもむりはない」と、小平太はあたりを見廻しながら低声《ていせい》につづけた。井上源兵衛といえば、九両三人|扶持《ぶち》を頂いて、小身ながらも、君候|在世《ざいせい》の砌《みぎ》りはお勝手元勘定方を勤めていた老人である。「それにしても変った所でお目にかかりましたな。で、お父上はその後御息災でいられるかな」
「はい」と言ったまま、娘はきゅうに下を向いて、はらはらと涙を滾《こぼ》した。
「ふうむ?」と、小平太は相手の容子を見い見い訊ねてみた。「では、何か変ったことでもござりましたか」
「は、はい」と、娘は前垂の端《はし》で眼の縁を拭《ぬぐ》って、ちらと背後《うしろ》を振返りながら、これもあたりへ気を兼ねるように小声でつづけた。「父は昨年の暮に亡《な》くなりました。それから引続いて母が永い間の煩《わずら》いに、蓄えとてもござりませねば、親子|揃《そろ》って一時は路頭に迷おうとしましたが、長屋の衆が親切におっしゃってくださいまして、この春からここで勤めさせていただくようになったのでございます」
「それはそれは、とんだ苦労をなされましたな」と、小平太も相手を労《いたわ》るように言った。「だが、これも時代《ときよ》時節《じせつ》というもの、そのうちにはまたいいことも運《めぐ》ってきましょう。あまりきなきな思って、あなたまで煩わぬようにされるがようござりましょうぞ」
「ありがとう存じます」と、娘は優しく言われるにつけて、またもやせぐりくる涙を前垂の端で押え押えした。
「で、母御《ははご》はその後ちっとはおよろしい方でござるかな」
「それがどうも捗々《はかばか》しくございませんので……この夏から始終寝たり起きたりしていましたが、秋口からはどっと床についたきりでございますの」
「それはまた御心配な」と、小平太は心から同情するように言った。「まあ、せいぜい大切《だいじ》にしておあげなさるがいい。手前もまた何かのおりにお訪ねすることもござろうが、ただ今のお住家《すまい》はこの御近所で?」
「はい、妙見様《みょうけんさま》の裏手の七軒長屋で、こちらの茶店へ出ているおしおと聞いていただけば、じき知れますの」と言いかけて、ふと気がついたように、「でも、大変|汚《むさ》い所でございますので、あなた方にいらしていただくような……」と、遠慮がちに言いなおした。
「いやなに、今では
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