手前もごらんのとおりの身の上、その御遠慮にはおよびませぬわい」と、小平太はちょっと袖のあたりを振返りながら、わざとらしく笑ってみせた。こんな風に身を落してこそおれ、今に見よ、同志揃って吉良邸に乗りこみさえすれば、主君の仇を討った忠義の士として、世に謳《うた》われる身だというような意識がちらと頭の中を翳《かす》めたのである。
「それに」と、彼はまた何気なくつづけた。「あのへんは手前もちょくちょく参りますから、また通りがかりに寄せていただくこともございましょう。どうかお帰りになったら、小平太がよろしく申したと、母御にお伝えくだされい」
まだ何やら訊いてみたいような気もしたが、人目を惹《ひ》くのがいやさに、小平太は茶代を払って、そこそこに茶店を出てしまった。年が若いだけに、思わぬ邂逅《めぐりあい》から妙に心をそそられたところへ、女の涙に濡《ぬ》れた顔を見て、大事を抱えた身とは知りながら、ついそれを忘れるような気持にもなったものらしい。夕日を仰いで、田圃《たんぼ》の中の一筋道を辿《たど》りながらも、彼は幾度か後を振返ろうとして、そのたびにようようの思いで喰いとめた。
二
去年三月主君|浅野内匠頭《あさのたくみのかみ》、殿中《でんちゅう》にて高家《こうけ》の筆頭|吉良上野介《きらこうずけのすけ》を刃傷《にんじょう》に及ばれ、即日芝の田村邸において御切腹、同時に鉄砲洲の邸はお召《め》し上《あ》げとなるまで、毛利小平太は二十石五人|扶持《ぶち》を頂戴《ちょうだい》して、これも同志の一人大石瀬左衛門の下に大納戸係《おおなんどがかり》を勤めていた。当時年は瀬左衛門より一つ上の二十六歳であった。その後|赤穂《あこう》城中における評議が籠城《ろうじょう》、殉死《じゅんし》から一転して、異議なく開城、そのじつ仇討《あだうち》ときまった際は、彼はまだ江戸に居残っていたので、最初の連判状には名を列しなかった。が、その年の暮に大石内蔵助が、かねて城明渡しの際|恩顧《おんこ》を蒙《こうむ》った幕府の目附方へ御礼かたがた、お家の再興を嘆願するために、番頭《ばんがしら》奥野将監《おくのしょうげん》と手を携《たずさ》えて出府《しゅっぷ》した際、小平太は何物かに後から押されるような気がして、内蔵助の旅館を訪《たず》ね、誓書《せいしょ》を入れて義徒の連盟に加わった。何物かとはいわゆる時代の精神である。当時の侍《さむらい》は、君父《くんぷ》の仇をそのままに差|措《お》いては、生きて人交りができなかった。彼もその精神に押しだされたのである。そして、内蔵助の帰洛《きらく》に随行《ずいこう》して、上方《かみがた》へ上って、しばらく京阪の間に足をとどめていた。
時代の精神と、もう一つは、世が太平になったために、ひとたび主《しゅう》に放れた浪人は喰うことができない、何人《だれ》も抱え手がないという事実に圧迫されて、小平太のほかにも、誓書を頭領にいたして、新《あらた》に義盟につくもの前後|踵《くびす》を接した。いかに喰えない浪人生活よりも、時代の精神に追われて死につく方が、彼らにとって快《こころよ》く思われたかは、主家の兇変《きょうへん》の前に、すでに浪人していた不破数右衛門《ふわかずえもん》、千葉《ちば》三郎兵衛、間新六《はざましんろく》の徒《と》が、同じように連盟に加わってきたのでも分る。とにかく、元禄十四年の暮から明くる年の春にかけて、連判状にその名を列《つら》ねるものじつに百二十五名の多きに上った。しかも、その中には、内匠頭の舎弟《しゃてい》大学を守《も》りたてて、ならぬまでもお家の再興を計った上、その成否を見定めてから事を挙げようとするものと、そんな宛にもならぬことを当にして、便々と待ってはいられない、その間に敵《かたき》と覘《ねら》う上野介の身に異変でもあったらどうするかと、一|途《ず》に仇討の決行を主張するものとがあって、硬軟両派に分れていた。前者の音頭《おんど》を取るものは、さきに大石と同行した奥野将監を始めとして、小山、進藤の徒であり、後者は堀部安兵衛、奥田孫太夫などの在府の士、並びに関西では原総右衛門、大高源吾、武林唯七らの人々であった。その争いが烈しくなるにつれて、前者は後者を罵《ののし》って、あいつらがそんなに逸《や》るのは喰うに困るからだと言った。そして、それは事実でもあった。元禄十五年の正月二十六日に、堀部安兵衛、奥田孫太夫、高田郡兵衛三人の連名で、江戸から大石に宛てた書面に、上方の連中がゆっくりしていられるのは、敵《かたき》の様子を目の前に見ていないからだ、それを毎日見せつけられている吾々の胸中も察してもらいたいというような意味のことを述べた末に、「同志の中でも器用なものは、医者の真似《まね》をしたり鍼医《はりい》になったりして、そ
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