相手は女のこと、どんなことから事の破れになろうもしれない。まあまあと思い返して、「そうか、主家を滅ぼした敵《かたき》の片割れに縁のある家の仕事をして、身過ぎをするのも時代時節、まあ何事も辛抱だね」と言っておいた。
その日宿へ帰った時、小平太は勘平に向って、今日中島伊勢の宅へ出入りをするお物師とちょっと知合になったがと漏らしてみた。すると、相手は無性に喜んで、
「そいつはうまいことをした。中島伊勢に娘をくれた家老といえば、やっぱり小林平八郎のことに相違ない。ちょっとそんな話を耳に挾んだこともある。ぜひそいつはもっと立ち入って探索《たんさく》しろ」とすすめてくれた。
で、その明くる日からは、小平太も大びらで宿を出て、おしおを訪ねることができた。が、女の顔を見ると、別にそんなことも言いださなければ、女の方でも、その後中島伊勢のことはふっつり口にしなくなった。ただ小平太はこうして毎日女の顔を見に行った。
が、一方では、兄新左衛門のことも気にかかっていた。ああして一時をごまかしてきたもの、あれから一度も姿を見せないから、今ごろどんなに不安に思っているかしれない。もっとも、兄の気性としては、あれだけ言っておいたものを、自分に無断で、はやまって一党に迷惑を懸けるようなことはすまい。なれど、長い間には、自身の不安から、何をしでかさないとも限らない。五日の討入が延びた時には、いっそ安兵衛に事情を打明けて、兄の前だけでも同盟を脱退したように繕《つくろ》ってもらおうかとも考えてみた。が、高田郡兵衛のことを思うと、うっかりしたことを言いだして、どんな疑いを同志から受けまいものでもない。それを思えば、どうしてもそんなことは言いだされなかった。時には、打明けた方が疑いを除くゆえんだとも思わないではなかったが、やっぱり何物かがあって彼を引留めた。で、とつおいつ思案している間に、とうとう言いだす機会を失ってしまった。
ただ彼は自分の住所を兄に知られていた。そのうちには、向うから訪ねてくるかもしれない。訪ねてこられたら一大事だ。彼は戸口に聞える足音にも胆《きも》を冷すようになった。よそから戻ってきても、まず留守中に誰も訪ねてこなかったと知るまでは安心ができなかった。
そんな不安な日を送っているうちにも、日数は経って、師走《しわす》の十一日になった。この日同志の一人大高源吾はふたたび宗匠山田宗※[#「彳+扁」、第3水準1−84−34]の許《ところ》から、来《きた》る十四日いよいよ上野介の自邸において納めの茶会が催《もよお》される、その後は年内に白金の上杉家の別墅《べっしょ》へ移られるはずだということまで聞きだしてきた。こうなればもう猶予《ゆうよ》はできない。それに十四日は先君《せんくん》の御命日でもあるから、その日を期して決行しようと、即座に一決して、頭領大石内蔵助からそれぞれ一党に通達《つうだつ》された。
小平太はまた黙りこんでしまった。何だか非常に遠い所にあるように思っていた黒雲が、きゅうに目の前へ覆《おお》い被《かぶ》さってきたのである。が、安兵衛も勘平も冷静にその通告を受けて、もうするだけの用意はしてしまった、いつでも来いと言わんばかりに落着きすましている。二人の前へ対しても、小平太は自分の落着きのないのが恥ずかしかった。どうかしてそれを覚られないように落着いていようと思うけれど、二人と顔を合せていると、何となく心の底まで見透されるような気がしてたまらない。それでも、その明くる日いっぱいは、じっと辛抱して宿に残っていた。が、夕方になると、もうたまらなくなって、兄の許へ母親に逢いに行くという口実《こうじつ》の下《もと》に、ぶらりと家を出てしまった。もちろん、兄の許へなぞ行く気はなかった。こうなればもう行く必要もなし、また事実行かれもしなかった。彼の行かれる所とては、天上天下、ただおしおの家だけであった。
彼は途を歩きながらも、「何のためにあの女に逢いに行く?」と考えてみずにはいられなかった。「俺はいったいあの女をどうしようと思っているのだ?」それには彼も自分ながら返辞ができなかった。
「可哀そうに」と、しばらくして彼はまた考えつづけた、「あの女も今に及んで俺がどんな心を抱いて、どんな苦しみを嘗《な》めているか、まるで知らないでいるのだ! こんな便りない男を手頼《たよ》りに生きてきて、その男さえこの世にいなくなったら、これから先どうして生きて行くだろう? 考えてみれば、まったく不仕合せの女には相違ない!」
ふと、「あの女を殺したら?」というような気が心のどこかでした。「そうだ、いっそのこと、あの女を手に懸けて殺したら、俺も本気で死ぬ決心がつくかもしれない」
が、そう思うと同時に、彼は自分でも自分の残忍な心に吃驚《びっくり》したように飛び上っ
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