楽になったと思ったら、いつの間にかうとうとと寝入ってしまった。
夜半《よなか》に咽喉《のど》が煎《い》りつくような気がして、小平太は眼を覚した。気がついてみると、自分はちゃんと蒲団の上に夜着を被《か》けて寝ていた。枕頭には古びた角行灯《かくあんどん》がとぼれて、その下の盆の上には、酔いざめの水のつもりであろう、土瓶《どびん》に湯呑まで添えておいてあった。彼はいきなり片手を伸ばして、それを引寄せようとしたが、ふと自分と床を並べて寝ているおしおの姿が眼にとまった。
「そうだ、俺はおしおの家に寝ているのだ!」
彼はぎょっとしたようにその手を引っこませた。それにしても、もう何時《なんどき》だろう? 晩《おそ》くなるとは言ってきたが、今夜自分が帰らないのを見たら、俺まで庄左衛門の二の舞いをしたものと極めて、横川がまたいつものように腹を立てていはせぬか。まあ、それは言い解《と》く術《すべ》もあろうし、明日の朝早く顔を見せさえすれば、それですむ。すまぬは宵《よい》におしおから聞いた話だ。もしあの話が真実《ほんとう》だとすれば、俺はどうしたらいいか。肚《はら》の子に惹《ひ》かれて、このままここに居坐りでもしたら、それこそ庄左衛門と選ぶところはない。俺も小山田といっしょにだけはなりたくない!
「いっそこの女を手に懸けたら!」と、途中で考えたことがふたたび彼の心に甦《よみがえ》ってきた。「そうだ、ここまで追詰められては、俺もこの女を道伴侶《みちづれ》にするほかに救われる道はない。不便《ふびん》ながらも、お前の命は貰ったぞ! 何事もお主《しゅう》のためと観念して、一足先に行ってくれい。それがお前にとっても一番いい道かもしれない、その肚《はら》に宿ったという不幸な子どものためにも!」
彼は頭だけ持上げて、そっと隣の寝床を見遣った。おしおは尋常に枕をしたまま、こちらを向いてすやすや寝入っている。その整った安らかな寝息が、いかにも男に信頼して、身も心も任せきっているように見えていじらしい。
「何も知らずに寝ているなあ!」
こう彼は呟いたまま、しばらく女の寝顔に見恍《みと》れていたが、何と思ったかきゅうに首を縮めて、またすっぽり夜着を引被《ひっかぶ》ってしまった。彼にはこの女を手に懸けるなぞということはできそうにもなかった。が、できなければどうしようというのだ? もう一日経てば、否でも応でも白刃《しらは》と白刃と打合う中へ飛びこまなければならぬ身ではないか。こんなことではならぬならぬと思いながら、思えば思うほど腕が萎《な》えるような気がして、どうにもならない。彼はただ暗がりの中にまじまじと眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いていた。
そのうちにどこかで一番鶏《いちばんどり》が鳴いた。
「もう夜が明けるのかしら?」
彼は夜着をはぐってもう一度顔を出した。が、宵《よい》まどいした鶏《とり》でもあったか、つづいて啼《な》く鳥の声も聞えなかった。
「そうだ、今のうちに決行しなければ、俺はいよいよ不義者になってしまうのだ!」
彼は一思いにがばと跳《は》ね起きて、いきなり壁ぎわに寄せておいた小刀を取るなり、すらりとその鞘《さや》を払った。そして、行灯《あんどん》の灯影《ほかげ》に曇りのないその刀身を透してみた。新刀ながら最近|研師《とぎし》の手にかけたものだけに、どぎどぎしたその切尖《きっさき》から今にも生血《なまち》が滴《したた》りそうな気がして、われにもなく持っている手がぶるぶると顫《ふる》えた。
「あなた、お目覚めになりましたか」と、不意に背後からおしおが声を懸けた。
小平太はぎくりとして、思わず振返った。そのはずみに、手に持った白刃がぎらりと闇に光った。それが眼に入ったのか、
「まあ、あなた!」と言ったまま、おしおはいきなり飛び起きてしまった。そして、
「あなた、どうなされました? 気でも狂ったのか、そんなものを手に持って!」と、やにわに男の腕に縋《すが》りついた。
「うむ、待て、危殆《あぶな》い! 待てと言ったら待て!」と、小平太は狼狽《うろた》えながら、その手を振り放そうとした。
「いえいえ放しませぬ、訳を話してくださらぬうちは、けっしてこの手を放すことではござりませぬ」と、女はいよいよ力を籠《こ》めて、一心に武者振《むしゃぶ》りついた。
「話す話す、訳を言うからその手を放してくれ」と、小平太はようよう女の手をほどいて、刀を鞘《さや》に納めた。
「さ、早う言ってくださいませ」と、女はその刀を取って自分の背後《うしろ》へ片づけてから、男の前に膝をすすめた。「わたしというものもある身で、短気な心を出さんしたその訳を、有様《ありよう》に言って聞かせてくださいませ」
「話すと言った上は、そう言わんでも、きっと話して聞かせる」と
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