と激励《げきれい》の言葉でも受けようと思っていたのに、かえってこちらの勇気を挫《くじ》かれたばかりか、あんな一時|遁《のが》れの嘘まで吐かなければならぬ嵌目《はめ》に陥《おちい》ってしまった。といって、それを幸いに、その嘘を真実《ほんとう》にしようなぞという気はもうとう起らなかった。彼にはあまりにも自己本位な兄の性根がありありと見え透《す》いていた。
「そうだ、兄が本当に主家を憂うる真心から、ああ言って俺に迫ったのなら、俺はこのまま兄の言うことを聞いて、同志を裏切るような気になったかもしれない。危殆《あぶな》い、本当に危殆《あぶな》いところだった」
 そう思いながらも、いっこうその兄に対する反撥心《はんぱつしん》の起らぬのが、自分でも不思議でならなかった。彼は心のうちのどこかで兄を是認《ぜにん》していた。しかも、それを突詰めてみることは、彼には怖ろしかった。
 彼はただ何とも言われない侘《わび》しさと寂寥《せきりょう》とを感じて、とぼとぼと街の上を歩いていた。

     八

 林町の宿へ戻った時は、まだ日が高かった。同宿の者はたいてい出払って、一人小山田庄左衛門が人待ち顔にぼんやり居残っていた。そして、
「おお水原か、どこへ行ってこられた?」と声を懸けた。
「は」と言ったものの、小平太には兄の許《ところ》へと実を言うのが何となく心苦しかった。で、「ちょっと知人の許《もと》へ」と、その場をごまかしておいて、
「それにしても、あなたは江戸に親御もあれば、御縁者も多いはず、どうしてそちらへお出かけにはなりませぬか」と反問してみた。
「なに、この期《ご》に及んで縁故のものをたずねても、何にもならぬからな」と、庄左衛門はわざと快活に笑ってみせた。
「でも、お父上一閑様は寄るお年波でもあり、さぞあなたを待ち侘びていられましょう」
「なに、あの親爺が」と、庄左衛門はそれでも寂しそうに言った。「あれは御承知のとおりの一剋者《いっこくもの》、わたしが会いになぞ行こうものなら、今ごろ何しに来た? 主君の仇も討たないうちに、何用あって親になぞ会いに来た? と、頭から呶鳴《どな》りつけますわい。先ごろちょっと立ち寄った時にも、いかい不興な顔をしましてな、もう来ても、二度とは顔を見せぬと叩きだすように追い返しました。八十を越した年寄とて、気にかからんでもないが、そんな訳で遠慮しておりますのじゃ」
「それはそれは」と言ったまま、小平太は自分の兄に引較べて、ちょっと返辞ができなかった。「なるほど、お父上の気性ならそうもありましょう。立派な父御を持たれてお羨《うらや》ましい」
 実際、彼は羨ましかった。そういう父親を持っていたら、自分も今になってこんなに心の動くこともあるまい。それにつけても、何と思って兄になぞ大事を打明けたかと、今さらのように自分の不覚を悔《くや》まずにはいられなかった。
 二人がそうしているところへ、表から足音荒く横川勘平がはいってきた。そして、ぷんぷん腹を立てながら、
「おい、また裏切者が出たぞ!」といきなり喚《よ》ばわった。
「裏切者?」と二人はいっせいに相手を見上げた。
「そうだ、裏切者が出た、しかもこの宿から出たのだ!」
 小平太はぎくりとして思わず飛び上った。何だか自分が今兄としてきた相談の一伍一什《いちぶしじゅう》をそのまま勘平に聞いていられたような気がしたのである。
「中村と鈴田の二人が朝から出て行った」と、勘平は委細かまわず続けた。「俺はどうもその出方が怪しいと思ったので、君らが出かけた後で、そっとその行李《こうり》を調べてみると、いつ持ちだしたものやら、何一つ残っていないではないか。それには惘《あき》れたね。が、捨ておかれぬと思ったから、すぐに頭領の許《ところ》へ駈《か》けつけてみた。すると、どうだ、太夫はもうちゃん[#「ちゃん」に傍点]と二人のことを知っていて、『どうも是非《ぜひ》におよばぬ』と言っていられるのだよ。聞いてみると、あいつらはもう書面でもって脱退の旨を届けてきたんだそうな。その文句がいいね。『自分ども存じ寄りの儀があって、今日限り同盟を退く。かねがね御懇情《ごこんじょう》を蒙《こうむ》ったが、年取った親もあることとて、どうも思召しどおりになるわけに行かない。よって自分どもは自分どもで一存を立てるつもりだから、どうぞ連判状から抜いてくれ』とあるんだとよ。奴らも今になってそんな卑怯《ひきょう》なことを言いだすくらいなら、何と思ってはるばる江戸まで下ってきたのだ? 俺にはその了簡《りょうけん》が分らないね」
「さあ」と言ったまま、小平太にはやっぱり返辞ができなかった。黙って聞いていると、何だか自分が罵《ののし》られているようにも思われた。
「たぶん江戸へ来れば、何かよいことでもあるように思ってきたんだろうが
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