」と、勘平はまだ余憤《よふん》が去らないように、一人でつづけた。「それが、そんな話がないばかりか、討入《うちいり》の日取りまで極ったというので、吃驚《びっくり》して腰を抜かしたんだろうよ」
「まさかそうでもあるまい」と、小平太はようよう口を挾んだ。「円山会議でいよいよ仇討と決した時、太夫から諸士へ廻された廻状にも、ちゃんとそれは明記してあったからな」
「それが慾目で分らなかったのさ」と勘平は捨ててやるように言って、からからと笑った。「だが、あいつらのように恥を忍んで生き延びたところで、いつまで生きるつもりだ? この先百年も生きやしまいし、晩《おそ》いか早いか、どうせ一度は死ぬる身ではないか」
「そうだ、どうせ一度は死ぬる身だ」と、小平太は自分で自分に言って聞かせるように呟《つぶや》いた。
「それが分らないんだから情けないね」と、それまで黙っていた庄左衛門もぽっつり口を出した。そして、三人ともそれぎり黙ってしまった。
「しかしね」と、しばらくして勘平は、何やら一人で考えているように言いだした。「俺に言わせれば、今になって返らぬことじゃあるが、このように敵討《かたきうち》を延び延びにされた太夫のしかたもよくない。第一、それがために、吾々の仕事が方々へ漏《も》れてしまった。今までのところでは、それも別段|差支《さしつか》えないようなものの、しかしだんだん士気の沮喪《そそう》してきたことは争われないぞ。せめてこの春にでも事を挙げられたら、百二十五人が五十人を欠くまでには減らなかったろうに! それを思うと、どうも残念でたまらないよ」
聞いている二人は思わず顔を見合せた。なるほど五十一人残っていた同志が、二人の逃亡によって、もはや四十九人になっていた。
「最初の脱盟者は例の高田郡兵衛だ」と、勘平は相手がそこらにでもいるように、一方を睨《にら》みつけながらつづけた。「あいつもこの春までは、安兵衛殿、孫太夫殿と並んで、硬派中の硬派と目されていた。それがどうだ、脱盟者の魁《さきがけ》となってしまったではないか。安兵衛殿の話に聞けば、何でも旗本の叔父から養子にと望まれたが、だんだんそれを断《ことわ》っているうちに、そばにいた兄が弟は仇討の大望を抱いているから、お望みに応じかねるのだと、うっかり口を辷《すべ》らしてしまった。叔父はそれを聞いて、『なに仇討? それは大変なことを考えている。天下の直参《じきさん》として、そんなことを聞き捨てにはならぬ』と言い張って、どうしても承知しない。そこで、叔父の言葉に従わなければ、大事が漏れて御一統にも難儀をかけるから、恥を忍んで身を退くと断って、連盟から脱退したということだよ。なるほど、その言分だけを聞けば、いちおうもっとものようにも思われるが、そのじつはどうだか分ったものじゃないね。それほど儀を重んずる心があるなら、なぜ自分からまず腹を切らないのだ? 命を捨てたら、どんな分らない叔父でも、まさか一統に迷惑を懸けるようなこともしでかすまい。それをしえないで、おめおめと養子になって生き延びているのは、何といっても命が惜しいからだよ。ね、そうじゃないか」
「そうだ、命が惜しいからだ」と、小平太は反射するように言った。実際、彼は自分でも何を言っているか分らなかった。彼はただ郡兵衛の脱盟した前後の事情のあまりによく自分が兄から言われた言葉に似ていることだけが分っていた。そして、自分が郡兵衛の立場に置かれたらどうするだろうと、そればかり考えていた。
その晩横になってからも、小平太はやっぱり中村鈴田両人のことが気になって、どうしても寝つかれなかった。中田理平次一人の時は、まだしも考えなおした。が、その後からまた二人の反逆者が出た。しかも、自分が朝夕顔を合せていた者の中から出た。彼は考えこまずにはいられなかった。
「二人はさんざ勘平から恥じしめられた。が、その代りに命を助かった。そうだ、恥を忍べば、まだ助かる道はあるのだ」
そう思って、小平太は自分ながらはっとした。武士が命を惜しむの、卑怯者だのと言われたらそれまでだ。それが最後の宣告である。彼はまだそれを超越するほど頽廃的《たいはいてき》になってもいなければ、またそれほど人として悪摺《わるず》れてもいなかった。
「そうだ、高田郡兵衛が最初の脱盟者になって、俺が最後の脱盟者になる? そんなことはありえない、断じてあってはならない!」
彼は一晩中|輾々反側《てんてんはんそく》して、やっと夜明け方にうとうととした。
九
師走《しわす》の二日には、深川八幡前の一|旗亭《きてい》に、頼母子講《たのもしこう》の取立てと称して、一同集合することになっていた。討入前の重大な会議のこととて、その日は安兵衛も、勘平も、小平太も打揃《うちそろ》うて午過ぎから出かけた。
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