大竹の矢来といったような厳重な設備は、少なくともそのへんには見受けられなかった。
彼はその間も始終右手の塀に目を着けていた。腰から下が羽目板になって、上に小屋根のついたもので、その中が座敷のお庭先にでもなっているらしい。ところどころ風通しの櫺子窓《れんじまど》もついているが、一つ一つ内側から簾《すだれ》が下げてあるので、中の様子は見られない。爪先立ちをしてみても、植込《うえこみ》の間から母屋の屋根つづきが、それもほん[#「ほん」に傍点]の少々|窺《うかが》われるばかりだ。
そのうちに、ふと一枚戸の中門が眼にとまった。ぴたりと閉めきってあるので、そのまま行き過ぎようとしたが、念のためだと二三歩後戻りをして、前後を見廻しながら、そっとその扉《と》に手を懸けようとした。とたんに、行手の土蔵の蔭から声高な話声が聞えてきたので、小平太はぎょっとして飛び退《の》いた。見ると、二人連れの侍《さむらい》が何やら話しながら、すぐ目の前へ遣ってくるのだ。彼はすかさず、
「少々物をお訊ね申しますが」と、小腰を屈めながら言った。「小林様のお長屋はどちらでございましょうか」
二人は立ち留って、じろじろ小平太の様子を眺めていたが、年嵩《としかさ》の方が、
「なに小林様? 御家老のお長屋はついその左手のお家がそうだ」と、顋《あご》をしゃくって教えてくれた。
「へえ、ありがとう存じます、まことに相すみませぬ」と、ぴょこぴょこ頭を下げながら、急いでその家のくぐり戸に手を懸けた。
二人の侍も小平太が門をはいるまでじっと後を見送っていたが、仲間体《ちゅうげんてい》ではあるし、状箱は持っている、別に胡乱《うろん》とも思わなかったか、そのまま踵《きびす》を返して行ってしまった。
小平太はくぐり戸を閉めて、始めてほっと胸を撫《な》で下ろした。一歩違いで無事にすんだけれども、考えてみれば、実際危かった。剣呑《けんのん》剣呑《けんのん》! と思いながら、気を取りなおして、すぐ前の玄関にかかった。そして、
「お頼もうします、お頼もうします」と、二度ばかり声を懸けた。
「どうれ!」とどす[#「どす」に傍点]がかった声がして、すぐ隣の玄関脇の部屋から、小倉《こくら》の袴《はかま》を穿《は》いた爺さんが出てきた。
小平太はいきなり二つ三つ頭を下げて、
「私はお茶道珍斎からこの文箱《ふばこ》を持ってまいりました。どうかお取次ぎを願います」と、手に持った状箱を差出した。
取次の爺さんは黙ってそれを受取って、朱塗りの蓋《ふた》の上に書いた宛名《あてな》の文字をつくづく眺めていたが、「ちょっと待て」と言い捨てたまま、奥へはいった。が、間もなく引返してきて、「すぐ御返事があるそうだから、しばらく待っておれ」と伝えた。そして、自分はすぐに元の部屋へはいってしまった。
小平太はしばらくそこに立っていたが、だいぶ手間が取れるらしく、奥からは何の沙汰《さた》もない。この間だ! この間にそこらを見廻ってやれとも思ったが、さっきの失敗に懲《こ》りているので、もし自分のいない間に出てこられでもして、申し開きが立たなかったら、それこそ百年目だ! なに、まだ帰途《かえりみち》もあることだと、じっと辛抱《しんぼう》しているうちに、やっと奥で手の鳴る音がした。それを聞くと、例の爺さんはそそくさと襖《ふすま》を明けてはいって行ったが、すぐにまた取って返して、
「待ち遠であったな。この中に御返事が入っているそうだ。よろしくと伝えてくりゃれ」と、小平太の持ってきた状箱を渡した。
「畏承《かしこま》りましてございます。そのほかにお言伝てはござりませぬか」
「うむ、これを持ってまいれば分るそうだ」
「さようでございますか、どうもお邪魔いたしました」と、小平太はお叩頭《じぎ》をして、そのまま表へ出た。
さあ、これからはもう帰るばかりだ。が、これだけではせっかく来た甲斐がないような気もした。第一、同志の連中が何と言うか知れない。彼には何よりも同志の思わくが気になった。で、右へ行けば表門へ出るのを、わざと左へ取って、角の土蔵について廻ってみた。すると、もうそこに裏門が見えて、その正面にあたる所が裏口の小玄関にでもなっているらしい。それが眼に着くと、彼はすぐに踵《きびす》を旋《かえ》した。そちらの方面のことは、前原や神崎の手でおおよそ分っていたからである。
で、元来た道を引返していると、ふたたび例の中門が眼にとまった。見ると、前にはびたりと閉めきってあった戸が、どうしたのやら一寸ばかり透《す》いている。想うに、さっき逢った侍がここからはいって、つい閉め残したものでもあるらしい。小平太は天の与えとばかりに胸を躍《おど》らせた。が、遽《あわ》てるところではないと、前後を見廻して、人目のないのを見定めながら、つと扉《
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