きゅうに胸をどきつかせながらも、きっぱり返辞をした。
「くれぐれも仕損じのないようにな」と、安兵衛はなお念を押すように言った。「この場になってしくじったら、それこそ大事去るだ! その心得で遣ってきてもらいたい」
「よく分っております」と、小平太も緊張にやや蒼味を帯びた顔を上げて言った。「万一|見咎《みとが》められるようなことがありましょうとも、一命に懸けて御一同の難儀になるようなことはいたしませぬ」
「その覚悟で行けば、しくじることもあるまい。だが、見破られないうちに、こちらの思う所を見てくるのが肝心《かんじん》だ。くどいようじゃが、その心得でな」
「畏承《かしこま》りました」
 小平太はすぐに身支度をして、例の状箱を受取って立ち上った。何と思ったか、勘平も後から追い縋《すが》るように送ってでて、
「長左衛門どのの言われるとおり、向うの様子がもう少し知れないと、迂濶《うかつ》に手は出せないという頭領始め領袖方《りょうしゅうがた》の御意見だ。しっかり遣ってきてくれ」と、皮肉らしく小声でささやいた。「その代りに、うまく行ったら当夜の一番槍にも優る功名だぞ」
「うむ!」とうなずいたまま、小平太は黙って表へ飛びだした。

     五

 小平太が進んでこの危い役割を引請《ひきう》けたのは、一つは心のうちを見透《みすか》されまいとする虚勢《きょせい》からでもあったが、一つにはまた、ここで一番自分の働きぶりを見せて、中田理平次なぞとはまるで違った人間だということを同志の前にはっきり証拠立てておきたかったからでもあった。いや、同志の前というよりは、第一自分の前に証拠立てたかった。だって、小平太の心を疑っているものは、何人《だれ》よりもまず彼自身であったから! そこで彼は与えられた機会を、よく考えてもみないで、しゃにむに掴《つか》んでしまった。が、一党に対する責任を思えば、安兵衛から注意されるまでもなく、この任務はあまりにも重かった。もし怪しい奴と睨《にら》まれて、町奉行の手にでも引渡されたら……そして、どうしても密事を吐かねばならぬような嵌目《はめ》に陥《おちい》ったら……
「そんなことにでもなれば、俺一人ではない、一党の破滅だ!」と、考えただけでも足の竦《すく》むような気がして、彼は思わず街《まち》の上に突立ってしまった。
 が、それとともに、「一命に懸けても」と二人の前に誓った言葉が彼の心に泛《うか》んできた。
「そうだ」と、彼はふたたび自分で自分に誓うように呟《つぶや》いた。「どんなことになろうとも、俺はこの口を開けてはならない。――責めらりょうが、殺さりょうが、たとい舌を咬《く》い切ってでも!」
 こんな烈しい言葉を用いながらも、彼はそれによって、不思議に、何の衝撃をも、不安をも、恐怖をも感じなかった。この場合、彼には命を投げだすということがきわめて訳もないことのように思われたのである。
「なに、死ぬ気でかかったら、何ほどの事があろう? こちらの覚悟一つだ!」
 彼は力足《ちからあし》を踏《ふ》み緊《し》めるようにして歩きだした。見ると、もう吉良家の裏門に近く来ている。かねて小豆屋善兵衛の探知によって、家老小林の宅が裏門に近い所にあるとは聞いていた。が、それでは都合が悪いと思ったか、わざと表門へ廻って、門番にかかった。
「お願いでございます、ちょっと小林様のお長屋へ通らせていただきます」
「小林様へ通るはいいが、いずれから参った?」と、暇潰《ひまつぶ》しに網すきをしていた門番が面倒臭そうに聞き返した。
「へえ、両国橋のお茶道珍斎からお状箱を持ってまいりました」
「そうか、よし通れ!」
 小平太はまず虎口《ここう》を免《のが》れたような気がした。が、ここでひとつ落着いたところを見せておこうと、
「私《わたくし》は新参者でよく存じませぬが、小林様のお長屋はどちらでございましょう?」と訊いてみた。
「なに、初めて御当家へ参ったと申すか」と、足軽はやっと手に持った網から顔を上げた。「小林様はお玄関の前を左に折れて、中の塀についてお長屋の前を真直に行くと、一番奥の一軒建ちがそれだ」
「へえ、どうもありがとうございます。こちらへ参りますか、は、分りました」と、お叩頭《じぎ》をしいしい、わざとゆっくり足を運んで、遠目に玄関口を覗《のぞ》いてみると、正面に舞楽《ぶがく》の絵をかいた大きな衝立《ついたて》が立ててあるばかりで、ひっそり閑と鎮《しず》まり返っていた。が、ここらで見咎《みとが》められてはならぬと思うから、言われたとおりに、すぐに左へ折れて、総長屋の前をぶらりぶらりと歩いて行った。長屋にはところどころ人声がして、どこからともなく水を汲む音、夕餉《ゆうげ》の支度をするらしい物音が聞えてきた。が、どちらを見ても、別段目に立つような異状はない。
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