へ渡りがつけてあるから、近いうちには何とか仕官《しかん》の途《みち》も着こうかと思っている。その前に内密《ないしょ》でそなたといっしょにいることが、骨折ってくれている兄にでも知れたら悪い。たとい一合二合の切米《きりまい》でなりとも、主取《しゅど》りさえできたら、きっと願いを出して、表向きそなたを引取るようにするから、それまでのところは、寂しかろうが、このまま御近所の世話になっていてもらいたい。あんまり引っこんでばかりいては、気もくさくさするだろうから、初七日《しょなぬか》でもすんだらまた茶店へも出るようにしたがいい。なに、それも永いことではない。わしも暇さえあれば、ちょくちょく会いに来るからね」と、さまざまに言い拵《こしら》えて、やっと相手を納得させた。
 で、その日の七つ下《さげ》りに、小平太は屈托《くったく》そうな顔をしながら、ぼんやり林町の宿へ戻ってきた。すると横川勘平が待ち構えていて、相手の顔を見るなり、
「おお水原か、いいところへ戻ってきた。貴公でなくちゃできない仕事がある」と、いきなり言いだした。そばには安兵衛の長左衛門も居合せて、何やら事ありげな様子に見えた。
「何だ何だ?」と、小平太も心のうちを見透《みすか》されまいと思うから、わざと威勢よく二人のそばへ顔を寄せて行った。
「じつはあの両国の橋の袂《たもと》にいる茶坊主|珍斎《ちんさい》な」と、勘平は声を潜《ひそ》めてつづけた。「あいつはいつかも話したとおり例の山田|宗※[#「彳+扁」、第3水準1−84−34]《そうへん》の弟子で、やはり卜《ぼく》一(上野介の符牒《ふちょう》)の邸へ出入りをしている、茶会《さかい》でもある時は、師匠のお供《とも》をして行って、いろいろ手伝いもしているという話だから、またなにか聞きだすこともあろうかと、この間からそれとなく取入っておいたがね、今日はからずそいつの手から卜一の家老小林平八郎に宛てた書面を手に入れたんだよ」
「ふむふむ!」
「つい今の先のことだ、ぶらりとはいって行くと、これはいいところへ来てくれた、また一筆頼むと言うじゃないか。なに、この坊主がお茶はできるかしらんが、無類の悪筆でね。これまでも二三度頼まれたことがあるから、おやすい御用と引請《ひきう》けて、さて宛名はと聞いてみると、小林だ。しめた! とは思ったが、色にも出さず、相手の言うままに認《したた》めた上、自分もあちらの方面に所用があるから、何なら私が届けて進ぜましょう、御返事があるようならまた房路《もどり》にと、うまく言って使者《つかい》まで請合ってきた。それはいいが、何しろ俺はこの前あの邸へはいりこんで、うろうろしているところを掴《つか》みだされた覚えがあるから、二度とあそこへは行かれない。と言って、長左衛門どのでは顔が売れているから、どうも目に立つし、気はせきながらも、貴公の帰りを待っていたのだ」
「そうか」と、小平太はぐっと固唾《かたず》を呑み下しながら言った。「よし、それでは俺が引請けた」
「うむ、しっかり遣《や》ってくれ」
「心得た。で、念のために聞いておくが、この手紙の用件は?」
「いや、それは何でもない。かねて小林から頼まれていた品が見つかった。いずれ近日持主同道で持参するからよろしくというだけだ。いずれ茶器か何かのことだろうよ。だが、貴公は何にも知らない体《てい》で、ただ使者《つかい》に来たようにしておいた方がいい」
「それもそうだな」
「とにかく、またと得られない機会だ」と、勘平はさらに自分の注文をつづけた。「できるだけ邸内の様子を細かに見てきてもらいたい。近ごろ長屋と母屋《おもや》との間に大竹の矢来を結《ゆ》い廻して、たとい長屋の方へ打入られても、母屋へは寄りつかれないようにしてあるという噂《うわさ》も聞くが、このごろはあちらでもお出入り以外の物売はいっさい入れないようにしているから、最近の様子はさっぱり分らない。そのへんも十分見届けてきてもらいたいな」
「それに」と、安兵衛もそばから言葉を添えた。「かねがね山田宗※[#「彳+扁」、第3水準1−84−34]のところへ弟子入りをしている脇屋氏《わきやうじ》(大高源吾のこと、京都の富商脇屋新兵衛と称して入りこむ)から、吉良邸では来月の六日に年忘れの茶会があるという内報もあった。すれば、五日の夜は必定《ひつじょう》上野介在宿に極《きわ》まったというので、討入はおおよそその夜のことになるらしい大石殿の口ぶりでもあった。だが、頭領としては、その前にもう一度邸内の防備の有無を見定めておきたいと言われるのだ。で、もしお手前の働きでそのへんの事情が確実に分ったら、吾々が待ちに待った日もいよいよ近づいたというものだ。大切《だいじ》な役目だ、しっかり遣ってきてもらいたい」
「心得ました」と、小平太はそれを聞いて、
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