た。で、ひととおり読経と焼香《しょうこう》がすんだ後、白銀三枚を包んで寺僧に致《いた》して、一同別席でお斎《とき》についた。それから暫時《ざんじ》人払いをした上、その席上で内蔵助から最後の打合せがあった。そして、後刻を約して散会になった。
安兵衛は八つ前に宿へ戻ってきた。すぐに小平太と勘平の二人を前へ喚《よ》んで、今日の次第を物語った上、「討入の手配はかねて覚書によってめいめいに伝えられたとおりでござる。一同は今夜|丑《うし》の上刻までに、この宿と、本所三つ目杉野十兵次どのの借宅と、前原神崎両人の店と、この三箇所へ集合することになっている。なおわれら三人のうち、横川氏は大石殿の手に属して表門へかかり、拙者と小平太どのとは主税どのの手に属して裏門へ廻ることになったから、その心得でいてもらいたい。で、それまでは格別用事もござらぬによって、用の残っている方は用達しに出られるのも御勝手だが、当家は一党の集合所になっていることでもあり、かたがた晩《おそ》くとも子《ね》の刻までにはここへ戻ってきているようにしてもらいたい。拙者はこれからこの旨を伝えるために、両国米沢町の養父の宅まで参るが、約束の刻限までにはかならず戻ってくるから」と言いおいたままふたたび出て行った。
その後で、勘平と小平太とはしばらく顔を突合せていた。小平太には、何よりもこうして同志の者と向い合って、落着かぬのに落着いた顔をしているのが辛かった。時刻は一分刻《いちぶきざ》みに刻々と移って行く。いっそ早く定めの刻限が来てくれたらとも思ってみた。そうしたら、この苦しみから免《のが》れられるかもしれない。その刻限が来るのは恐ろしい。しかしそれを待っているのはいっそう怖ろしい! そんなことを考えているうちに、勘平は何と思ったのか、小平太に向って、
「おい、今日はどうして出かけないのだ?」と言いだした。「俺はこちらに縁辺もなし、訪ねてやる知人《しりびと》とてもない。ま、留守は俺がしているから、今夜が最後だ、何方《いずかた》へなりとも行ってこられい」
小平太はその言葉に救われたような気がした。で、考える間もなく、
「そうか。では、気の毒じゃが、何分《なにぶん》頼むよ」と言ったまま、そわそわと宿を出てしまった。
が、出るには出ても、小平太には別段どこへ行く宛もなかった。おしおとはもう昨日の朝「二度とは会わんぞ!」と言いおいて別れてきた。それに、あの女と交した約束も果さないで、今さら逢いに行かれるものでない。そうはいうものの、いつもの癖か、足はおのずと柳島の方角へ向いていた。が、気がつくと、弾《はじ》かれるように方向を転じて、わざと向島の土手へ出た。それから渡船《とせん》を待ち合せて、待乳山《まつちやま》の下へ渡った時は、もう日もとっぷりと暮れていた。彼は先を争って上る合客の後から、のっそり船着場を上って行きながら、何のためにこうして雪の降る中を宛もなしに歩いているのか、自分でもよく分らなかった。
「そうだ」と、彼は河岸《かし》の上に立って、真黒な水の面《おもて》を見返りながら考えた。「俺はまだ死ぬ覚悟がついていないのだ! ついていなければこそ、こうして亡者のようにふらふら歩き廻っているのだ。だが、死ぬ覚悟をするために、俺はどれだけ苦しんできたろう? なるほど、俺は命が惜しい! 生れついての卑怯者かもしれない。だが、命が惜しいからといって、俺はまだ一度も命を助かろうとしてもがいた覚えはない。ただどうしたら命が捨てられるか、安んじて死んで行かれるかと、ただそればかりを今日まで力《つと》めてきた。それがためには、俺はかわいい女房をも殺そうとした。兄に大事を打明けたのも、じつはそのためだ。それでいながら、俺にはまだ死ぬ覚悟がつかない――この期《ご》に及んで、この土壇場《どたんば》に莅《のぞ》んで! 俺はいったいどうしたらいいのだ?」
どうしたらいいかは、彼にももちろん分ろうはずがなかった。彼はまたふらふらと歩きだした。
「ほかの連中は皆命を軽石ほどにも思っていないらしい。俺はどうしたらこの未練らしい執着《しゅうじゃく》の根を絶って、ああいう風になれるのだ?」
そう思いながら、彼はさすがに人通りの罕《ま》れな日本堤の上を歩いていた。後から「ほい、ほいッ!」と威勢のいい懸声をしながら、桐油《とうゆ》をかけた四つ手籠が一丁そばを摺《す》り抜けて行く。吉原の情婦《おんな》にでも逢いに行く嫖客《きゃく》を乗せて行くものらしい。が、彼はそんなことにも気がつかなかった。賑《にぎ》やかな廓《くるわ》の灯《ひ》を横目に見ながら、そのまま暗い土手の上を歩きつづけた。そして、だんだん歩いているうちに、とうとう坂本から上野の山下へ出てしまった。
山下へ出た時は、手も足も寒さに凍《こご》えて千断《ちぎ》れ
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