と、頭から一笑に附《ふ》せられるかもしれない。そう思うと、彼は自分が何のために遣ってきて、何のためにこうして待っているのか分らなくなった。それに、忠左衛門の用談はよほど大切なことと見えて、いつまで待っても果てそうにない。彼はだんだん尻をもじもじし始めた。
「時に太夫は京師《けいし》を出発される前に妻子を離別してこられたと承《うけたま》わるが」と、一人がまた言いだした。「後々《のちのち》のことを思えば、それも分別あるしかたと申すもの、近松どの、貴殿はいかがなされた?」
「妻子のことはとん[#「とん」に傍点]と忘れてい申した」と、勘六はむっつり口を開いた。「なに、なるようになる分のこと、そこまでは考えていられませぬわい」
「拙者は離縁状だけは渡してまいりました。しかし相続人とてはなし、渡さぬからとて、女子どもにはお咎《とが》めもござりますまい」
「拙者も御同様」
「拙者も……」
が、こんな話しになると、さすが死を決した面々もだんだん悒鬱《ゆううつ》になって、しまいには皆黙ってしまった。聞いている小平太には、いよいよ自分の用事が滑稽《こっけい》に見えてきた。
「他人は皆、ある妻子まで離別して、出かけてきている。それだのに、自分は今生死の境に立って、新《あらた》に妻を迎えたと、それも内密《ないしょ》で、拵《こしら》えたと、そんなことがどうしてお頭の耳に入れられよう? ばかな!」
そう思うとともに、きゅうに身繕《みづくろ》いして、
「誠に長座をして失礼いたしました」と、諸士に一礼して立ち上った。
「おお小平太どの、お帰りか。何か太夫に火急な用事でもあったのではござらぬか。お急ぎなら、吾々からお取次ぎいたそうか」と、口々に言ってくれた。が、そんな明らさまに、他人に言われるような用事ではない。
「いや、ありがとうはござりますが、さしたることでもござりませぬ。おりもあらば、また重ねて参上しまして」と言い捨てたまま、そこそこにその隠宅を出てしまった。
彼は真直に林町の宿へ戻ってきた。そして、一間《ひとま》に閉じ籠ったまま、誰とも顔を合せないようにしていた。彼としては、何よりもおしおにした約束を果さなかったことが気に懸った。こうなれば、あの女はもう自分の死後も自分の妻と名告《なの》ることはできない。妻も子も永遠に日蔭の身である。もっとも、同志の士は皆妻子を離別してきたというが、それとこれとは話が違う。あの女は一生|己《おの》れを扶助《ふじょ》してくれるはずの良人を失った上に、しかもその良人を誰と名指すこともできない。そして、その名指されぬ良人の子を繊弱《かよわ》い女手一つで育てて行かなければならない――これから先永い永い一生の間! あの女としては、そんな思いをして生きて行くよりも、自分の妻として、公然お上のお咎《とが》めに逢いたかったかもしれない。お咎めに逢って、もしお仕置《しおき》になるものならなって死にたかったかもしれない。それを知りながら、せっかく石町《こくちょう》まで出かけて行って、何にも言わずに還ってきた自分はいったいどうしたというのだろう?
「どうかしたら」と、彼はまた一人で考えつづけた、「俺は太夫にそんな内情まで打明けるが恐ろしかったのではないか。そんな内情まで打明ければ、俺は義理にも太夫に背《そむ》くことができなくなる。もちろん、俺は太夫を裏切るような気はない。気はないが、なおそこに一分の余裕を存《そん》しておくために、わざと太夫に逢わずに帰ってきたのではあるまいか。考えてみれば、兄新左衛門のいきさつを同宿の安兵衛に打明けようとして、とうとう打明けずにしまったのもそれだ。打明けずにさえおけば、いつでも兄とした約束を真実《ほんとう》にすることができるというゆとり[#「ゆとり」に傍点]がある。不埓《ふらち》でも、狡猾《ずる》いのでもない、俺はただそのゆとり[#「ゆとり」に傍点]が欲しかったのだ。今日でももし太夫に会って、いつぞやのような優しい言葉でも懸けられようものなら、俺はすぐにもこの人のために死にたくなる。それが怖ろしかったのだ!」
彼はもうそんな風にして自分の心を見詰めるに堪えられなかった。で、夜はまだ早いが、蒲団を敷いて一人でごろりと横になった。が、どうしても瞼眼《まぶた》が合わないで、とうとうまんじりともせずに一夜を明した。
十二
いよいよ十二月十四日、吉良邸討入の当日とはなった。その日は朝から霏々《ひひ》として雪が降っていた。月こそ変れ、先君内匠頭の命日である上に、今生《こんじょう》の名残りというので、大石内蔵助を始め十余名の同志は、かねての牒合《しめしあわ》せに従って、その日早く高輪泉岳寺にある先君の墓碣《ぼけつ》に参拝した。堀部安兵衛も同宿の毛利小平太、横川勘平を代表して、その席に列《つら》なっ
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