、俺もいよいよ後へは退かれなくなる道理だ! ただこんなことを太夫に申入れるには、誰か人をもってするのが本当かもしれないが、差当ってそれを打明けるのに恰好《かっこう》な相手も同志の中には見当らない。なに、かまうものか、場合が場合だ、面《つら》押拭《おしぬぐ》って自分で申しあげることにしよう。そう決心するとともに、彼はその日の昼過ぎから、ちょっと石町《こくちょう》まで伺候《しこう》してくると同宿の二人に断って、ぶらりと表へ出た。
急ぎ足に小山屋の隠宅まで来てみると、頭領大石は今国元へ送る書面を認《したた》めていられるというので、すぐには面会ができなかった。同じ宿に泊っている潮田《うしおだ》又之丞、近松勘六、菅谷《すがのや》半之丞、早水《はやみ》藤左衛門なぞという連中は、一室置いた次の間に集まって、上《かみ》の間に気を兼ねながらも、何やらおもしろそうに談話《はなし》をしていた。時にはわれを忘れて大きな声も出した。小平太はその中に加わったようなものの、ほかの連中は皆百五十石、二百石取りの上士《じょうし》ばかりで、三村次郎左衛門を除いては、元の身分が違うから、何となく話しもそぐわないような気がして、黙って隅の方に控《ひか》えていた。同志は「もっとこちらへ出られよ」と勧めてくれたが、遠慮してそばへ寄らなかった。次郎左衛門はもともと士分とも言われぬ小身ものだけに、自分もそのつもりで、始終起ったり坐ったりしながら、忠実《まめ》に一同の用を達していた。
内蔵助の書いている書面というのは、赤穂の元浅野家|菩提所《ぼだいしょ》華岳寺の住職|恵光《えこう》、同新浜正福寺の住職良雪、自家の菩提所|周世《すせ》村の神護寺住職三人に宛《あ》てたもので、自分が江戸へ下ってからの一党の情況を報じて、いよいよ一挙の日も迫ったことを告げた上、
「このたび申合せ候《そうろう》者《もの》ども四十八人にて、斯様《かよう》に志を合せ申す儀も、冷光院殿この上の御外聞と存ずることに候。死後御見分のため遺しおき候口上書一通写し進じ候。いずれも忠信の者どもに候《そうろう》間《あいだ》、御回向《ごえこう》をも成《なされ》下《くださる》べく候。その場に生残り候者ども、さだめて引出され御尋ね御仕置にも仰附《おおせつ》けらるべく、もちろんその段|人々《にんにん》覚悟の事に候。御心易かるべく候云々」と書いてあった。死後御検分のため遺しおく口上書とは、二日に深川八幡前で認めた仇討《あだうち》の宣言書と起請文《きしょうもん》のことで、その中には毛利小平太の名も歴然として記載されてあるこというまでもない。なお内蔵助はそれについで、己《おの》が妻子のことにも言い及んで、
「はたまた拙者妻こと、京より離別|仕《つかまつ》り縁者方へ返し申候。伜、娘儀いかように罷成《まかりな》り候ともそれまでの事に候」といい、さらに平常《ひごろ》方外の友として、その啓沃《けいよく》を受けた良雪に対しては、
「良雪様、去年以来の御物語、失念|仕《つかまつ》らず、日々存じ出し、このたび当然の覚悟に罷成りかたじけなき次第に御座候。日ごろ御心易く御意を得《え》候《そうろう》各々様ゆえ、別して御残多く、御暇乞かたがたかくのごとく御座候、恐惶謹言」と結んでいる。で、それを書いてしまうと、若党室井左六、加瀬村幸七の両人をそばへ喚《よ》んだ。かねてその旨|吩咐《いいつ》けられていたので、両人とも旅支度をして脚絆《きゃはん》まで穿《は》いていたこととて、その書状を受取るなり、一同に暇乞《いとまご》いして、涙を拭き拭き出て行った。
で、この隙間《ひま》に太夫に会ってと、小平太は腰まで上げたが、吉田忠左衛門が来て、何やら太夫と打合せをしていると聞いて、またその腰を卸《おろ》してしまった。そして、ふたたび黙って諸士の話しに耳を傾けた。
「今ごろから出かけて、あの二人は日のあるうちにどこまで延しますかな」と、一人が言った。
「さ、脚の早い者とて、六郷までは参りましょうか。今夜は川崎泊りですよ」
「日の短いごろですからな」と、また一人がそれに応えた。「それにしても、あの主思いな二人の忠節といい、それを出してやられる太夫のお心のうち、昔の鬼王、童三《どうざ》が古事《ふるごと》も想いだされて、拙者は思わず貰い泣きをしました」
「さようさよう。同じ大石殿の家来の中《ちゅう》にも、瀬尾孫左衛門のような人非人《にんぴにん》もあれば、またあんな忠義なものもある。まさかの場合になって、始めて人の心は分るものでござるな」
こんな話しを聞いていると、小平太には、せっかく太夫に聞いてもらおうとした自分の用事が取るに足りないばかりでなく、何だが滑稽《こっけい》のようにも思われてきた。自分としては一生懸命だが、人が聞けば、何と思って今ごろそんなことを言いだすか
前へ
次へ
全32ページ中25ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森田 草平 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング