》とか金米糖《こんぺいとう》とかいうたぐいの干菓子《ひがし》をたずさえて来るので、それを半紙に乗せて盆の上に置き、ご退屈でございましょうからと云って、土産のしるしに差出すのである。
貰った方でもそのままには済まされないから、返礼のしるしとして自分が携帯の菓子類を贈る。携帯品のない場合には、その土地の羊羹《ようかん》か煎餅《せんべい》のたぐいを買って贈る。それが初対面の時ばかりでなく、日を経ていよいよ懇意になるにしたがって、ときどきに鮓《すし》や果物などの遣り取りをすることもある。
わたしが若いときに箱根に滞在していると、両隣りともに東京の下町《したまち》の家族づれで、ほとんど毎日のようにいろいろの物をくれるので、すこぶる有難迷惑に感じたことがある。交際好きの人になると、自分の両隣りばかりでなく、他の座敷の客といつの間にか懇意になって、そことも交際しているのがある。温泉場で懇意になったのが縁となって、帰京の後にも交際をつづけ、果ては縁組みをして親類になったなどというのもある。
両隣りに挨拶するのも、土産ものを贈るのも、ここに長く滞在すると思えばこそで、一泊や二泊で立ち去ると思えば、たがいに面倒な挨拶もしないわけである。こんな挨拶や交際は、一面からいえば面倒に相違ないが、又その代りに、浴客同士のあいだに一種の親しみを生じて、風呂場で出逢っても、廊下で出逢っても、互いに打ち解けて挨拶をする。病人などに対しては容体をきく。要するに、一つ宿に滞在する客はみな友達であるという風で、なんとなく安らかな心持で昼夜を送ることが出来る。こうした湯治場気分は今日《こんにち》は求め得られない。
浴客同士のあいだに親しみがあると共に、また相当の遠慮も生じて来て、となり座敷には病人がいるとか、隣りの客は勉強しているとか思えば、あまりに酒を飲んで騒いだり、夜ふけまで碁《ご》を打ったりすることは先ず遠慮するようにもなる。おたがいの遠慮――この美徳はたしかに昔の人に多かったが、殊に前に云ったような事情から、むかしの浴客同士のあいだには遠慮が多く、今日のような傍若無人《ぼうじゃくぶじん》の客は少なかった。
三
しかしまた一方から考えると、今日《こんにち》の一般浴客が無遠慮になるというのも、所詮《しょせん》は一夜泊まりのたぐいが多く、浴客同士のあいだに何の親しみもないからであろう。殊に東京近傍の温泉場は一泊または日帰りの客が多く、大きい革包《カバン》や行李《こうり》をさげて乗り込んでくるから、せめて三日や四日は滞在するのかと思うと、きょう来て明日《あした》はもう立ち去るのが幾らもある。こうなると、温泉宿も普通の旅館と同様で、文字通りの温泉旅館であるから、それに対して昔の湯治場気分などを求めるのは、頭から間違っているかも知れない。
それにしても、今日の温泉旅館に宿泊する人たちは思い切ってサバサバしたものである。洗面所で逢っても、廊下で逢っても、風呂場で逢っても、お早うございますの挨拶さえもする人は少ない。こちらで声をかけると、迷惑そうに、あるいは不思議そうな顔をして、しぶしぶながら返事をする人が多い。男は勿論、女でさえも洗面所で顔をあわせて、お早うはおろか、黙礼さえもしないのがたくさんある。こういう人たちは外国のホテルに泊まって、見識らぬ人たちからグード・モーニングなどを浴びせかけられたら、びっくりして宿換えをするかも知れない。そんなことを考えて、私はときどきに可笑《おかし》くなることもある。
客の心持が変ると共に、温泉宿の姿も昔とはまったく変った。むかしの名所|図絵《ずえ》や風景画を見た人はみな承知であろうが、大抵の温泉宿は茅葺《かやぶ》き屋根であった。明治以後は次第にその建築もあらたまって、東京近傍にはさすがに茅葺きのあとを絶ったが、明治三十年頃までの温泉宿は、今から思えば実に粗末なものであった。
勿論、その時代には温泉宿にかぎらず、すべての宿屋が大抵古風なお粗末なもので、今日の下宿屋と大差なきものが多かったのであるが、その土地一流の温泉宿として世間にその名を知られている家でも、次の間つきの座敷を持っているのは極めて少ない。そんな座敷があったとしても、それは僅かに二間《ふたま》か三間《みま》で、特別の客を入れる用心に過ぎず、普通はみな八畳か六畳か四畳半の一室で、甚《はなは》だしきは三畳などという狭い部屋もある。
いい座敷には床の間、ちがい棚は設けてあるが、チャブ台もなければ、机もない。茶箪笥《ちゃだんす》や茶道具なども備えつけていないのが多い。近来はどこの温泉旅館にも机、硯《すずり》、書翰箋《しょかんせん》、封筒、電報用紙のたぐいは備えつけてあるが、そんなものはいっさい無い。
それであるから、こういう所へ来て私たちの最も困ったのは、机のないことであった。宿に頼んで何か机を貸してくれというと、大抵の家では迷惑そうな顔をする。やがて女中が運んでくるのは、物置の隅からでも引摺り出して来たような古机で、抽斗《ひきだし》の毀れているのがある、脚の折れかかっているのがあるという始末。読むにも書くにも実に不便不愉快であるが、仕方がないから先ずそれで我慢するのほかは無い。したがって、筆や硯にも碌なものはない。それでも型ばかりの硯箱を違い棚に置いてある家はいいが、その都度《つど》に女中に頼んで硯箱を借りるような家もある。その用心のために、古風の矢立《やたて》などを持参してゆく人もあった。わたしなども小さい硯や墨や筆をたずさえて行った。もちろん、万年筆などは無い時代である。
こういう不便が多々ある代りに、むかしの温泉宿は病いを養うに足るような、安らかな暢《のび》やかな気分に富んでいた。今の温泉宿は万事が便利である代りに、なんとなくがさ[#「がさ」に傍点]ついて落着きのない、一夜どまりの旅館式になってしまった。
一利一害、まことに已《や》むを得ないのであろう。
四
万事の設備不完全なるは、一々数え立てるまでもないが、肝腎の風呂場とても今日のようなタイル張りや人造石の建築は見られない。どこの風呂場も板張りである。普通の銭湯とちがって温泉であるから、板の間がとかくにぬらぬらする。近来は千人風呂とかプールとか唱えて、競って浴槽を大きく作る傾きがあるが、むかしの浴槽はみな狭い。畢竟《ひっきょう》、浴客の少なかった為でもあろうが、どこの浴槽も比較的に狭いので、多人数がこみ合った場合には頗《すこぶ》る窮屈であった。
電燈のない時代は勿論、その設備が出来てからでも、地方の電燈は電力が十分でないと見えて、夜の風呂場などは濛々《もうもう》たる湯烟《ゆげ》にとざされて、人の顔さえもよく見えないくらいである。まして電燈のない温泉場で、うす暗いランプのひかりをたよりに、夜ふけの風呂などに入っていると、山風の声、谷川の音、なんだか薄気味の悪いように感じられることもあった。今日でも地方の山奥の温泉場などへ行けば、こんなところが無いでもないが、以前は東京近傍の温泉場も皆こんな有様であったのであるから、現在の繁華に比較して実に隔世の感に堪えない。したがって、昔から温泉場には怪談が多い。そのなかでやや異色のものを左に一つ紹介する。
柳里恭《りゅうりきょう》の「雲萍雑志《うんぴょうざつし》」のうちに、こんな話がある。
「有馬に湯あみせし時、日くれて湯桁《ゆげた》のうちに、耳目鼻のなき痩法師の、ひとりほと[#「ほと」に傍点]/\と入りたるを見て、余は大いに驚き、物かげよりうかゞふうち、早々湯あみして出でゆく姿、骸骨の絵にたがふところなし。狐狸《こり》どもの我をたぶらかすにやと、その夜は湯にもいらで臥《ふ》しぬ。夜あけて、この事を家あるじに語りければ、それこそ折ふしは来り給ふ人なり。かの女尼は大坂の唐物商人伏見屋てふ家のむすめにて、しかも美人の聞えありけれども、姑《しゅうと》の病みておはせし時、隣より失火ありて、火の早く病床にせまりしかど、助け出さん人もなければ、かの尼とびいりて抱へ出しまゐらせしなり。そのとき焼けたゞれたる傷にて、目は豆粒ばかりに明きて物見え、口は五分ほどあれど食ふに事足り、今年はや七十歳ばかりと聞けりといへるに、いと有難き人とおもひて、後も折ふしは人に語りいでぬ。」
これは怪談どころか、一種の美談であるが、その事情をなんにも知らないで、暗い風呂場で突然こんな人物に出逢っては、さすがの柳沢権太夫《やなぎさわごんだゆう》もぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としたに相違ない。元来、温泉は病人の入浴するところで、そのなかには右のごとき畸形や異形《いぎょう》の人もまじっていたであろうから、それを誤り伝えて種々の怪談を生み出した例も少なくないであろう。
五
次に記《しる》すのは、ほんとうの怪談らしい話である。
安政《あんせい》三年の初夏である。江戸|番町《ばんちょう》の御厩谷《おんまやだに》に屋敷を持っている二百石の旗本|根津民次郎《ねづたみじろう》は箱根へ湯治に行った。根津はその前年十月二日の夜、本所《ほんじょ》の知人の屋敷を訪問している際に、かのおそろしい大地震に出逢って、幸いに一命に別条はなかったが、左の背から右の腰へかけて打撲傷を負った。
その当時はさしたることでも無いように思っていたが、翌年の春になっても痛みが本当に去らない。それが打ち身のようになって、暑さ寒さに祟《たた》られては困るというので、支配|頭《がしら》の許可を得て、箱根の温泉で一ヵ月ばかり療養することになったのである。旗本と云っても小身《しょうしん》であるから、伊助《いすけ》という中間《ちゅうげん》ひとりを連れて出た。
道中は別に変ったこともなく、根津の主従は箱根の湯本、塔の沢を通り過ぎて、山の中のある温泉宿に草鞋《わらじ》をぬいだ。その宿の名はわかっているが、今も引きつづいて立派に営業を継続しているから、ここには秘して置く。
宿は大きい家で、ほかにも五、六組の逗留客があった。根津は身体に痛み所があるので下座敷のひと間を借りていた。着いて四日目の晩である。入梅に近いこの頃の空は曇り勝ちで、きょうも宵から細雨《こさめ》が降っていた。夜も四つ(午後十時)に近くなって、根津もそろそろ寝床にはいろうかと思っていると、何か奥の方がさわがしいので、伊助に様子を見せにやると、やがて彼は帰って来て、こんなことを報告した。
「便所に化け物が出たそうです。」
「化け物が出た……。」と、根津は笑った。「どんな物が出た。」
「その姿は見えないのですが……。」
「一体どうしたというのだ。」
その頃の宿屋には二階の便所はないので、逗留客はみな下の奥の便所へ行くことになっている。今夜も二階の女の客がその便所へかよって、そとから第一の便所の戸を開《あ》けようとしたが、開かない。さらに第二の便所の戸を開けようとしたが、これも開かない。そればかりでなく、うちからは戸をコツコツと軽く叩いて、うちには人がいると知らせるのである。そこで、しばらく待っているうちに、ほかの客も二、三人来あわせた。いつまで待っても出て来ないので、その一人が待ちかねて戸を開けようとすると、やはり開かない。前とおなじように、うちからは戸を軽く叩くのである。しかも二つの便所とも同様であるので、人々はすこしく不思議を感じて来た。
かまわないから開けてみろと云うので、男二、三人が協力して無理に第一の戸をこじ開けると、内には誰もいなかった。第二の戸をあけた結果も同様であった。その騒ぎを聞きつけて、ほかの客もあつまって来た。宿の者も出て来た。
「なにぶん山の中でございますから、折りおりにこんなことがございます。」
宿の者はこう云っただけで、その以上の説明を加えなかった。伊助の報告もそれで終った。
その以来、逗留客は奥の客便所へゆくことを嫌って、宿の者の便所へかようことにしたが、根津は血気盛りといい、且《かつ》は武士という身分の手前、自分だけは相変らず奥の便所へ通っていると、それから二日目の晩にまたもやその戸が開かなく
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