なった。
「畜生、おぼえていろ。」
 根津は自分の座敷から脇差を持ち出して再び便所へ行った。戸の板越しに突き透してやろうと思ったのである。彼は片手に脇差をぬき持って、片手で戸を引きあけると、第一の戸も第二の戸も仔細なしにするり[#「するり」に傍点]と開いた。
「畜生、弱い奴だ。」と根津は笑った。
 根津が箱根における化け物話は、それからそれへと伝わった。本人も自慢らしく吹聴《ふいちょう》していたので、友達らは皆その話を知っていた。
 それから十二年の後である。明治元年の七月、越後《えちご》の長岡城が西軍のために落された時、根津も江戸を脱走して城方《しろかた》に加わっていた。落城の前日、彼は一緒に脱走して来た友達に語った。
「ゆうべは不思議な夢をみたよ。君たちも知っている通り、大地震の翌年に僕は箱根へ湯治に行って宿屋で怪しいことに出逢ったが、ゆうべはそれと同じ夢をみた。場所も同じく、すべてがその通りであったが、ただ変っているのは……僕が思い切ってその便所の戸をあけると、中には人間の首が転がっていた。首は一つで、男の首であった。」
「その首はどんな顔をしていた。」と、友達のひとりが訊いた。
 根津はだまって答えなかった。その翌日、彼は城外で戦死した。

     六

 昔はめったに無かったように聞いているが、温泉場に近年流行するのは心中沙汰《しんじゅうざた》である。とりわけて、東京近傍の温泉場は交通便利の関係から、ここに二人の死に場所を選ぶのが多くなった。旅館の迷惑はいうに及ばず、警察もその取締りに苦心しているようであるが、容易にそれを予防し得ない。
 心中もその宿を出て、近所の海岸から入水《じゅすい》するか、山や森へ入り込んで劇薬自殺を企てるたぐいは、旅館に迷惑をあたえる程度も比較的に軽いが、自分たちの座敷を舞台に使用されると、旅館は少なからぬ迷惑を蒙《こうむ》ることになる。
 地名も旅館の名もしばらく秘して置くが、わたしが曾《かつ》てある温泉旅館に投宿した時、すこし書き物をするのであるから、なるべく静かな座敷を貸してくれというと、二階の奥まった座敷へ案内され、となりへは当分お客を入れない筈であるから、ここは確かに閑静であるという。成程それは好都合であると喜んでいると、三、四日の後、町の挽地物《ひきぢもの》屋へ買物に立ち寄った時、偶然にあることを聞き出した。ひと月ほど以前、わたしの旅館には若い男女の劇薬心中があって、それは二階の何番の座敷であると云うことがわかった。
 その何番は私の隣室で、当分お客を入れないといったのも無理はない。そこは幽霊(?)に貸切りになっているらしい。宿へ帰ると、私はすぐに隣り座敷をのぞきに行った。夏のことであるが、人のいない座敷の障子は閉めてある。その障子をあけて窺《うかが》ったが、別に眼につくような異状もなかった。
 その日もやがて夜となって、夏の温泉場は大抵寝鎮まった午後十二時頃になると、隣りの座敷で女の軽い咳《せき》の声がきこえる。勿論、気のせいだとは思いながらも、私は起きてのぞきに行った。何事もないのを見さだめて帰って来ると、やがて又その咳の声がきこえる。どうも気になるので、また行ってみた。三度目には座敷のまんなかへ通って、暗い所にしばらく坐っていたが、やはり何事もなかった。
 わたしが隣り座敷へ夜中に再三出入りしたことを、どうしてか宿の者に覚られたらしい。その翌日は座敷の畳換えをするという口実のもとに、わたしはここと全く没交渉の下座敷へ移されてしまった。何か詰まらないことを云い触らされては困ると思ったのであろう。しかし女中たちは私にむかって何んにも云わなかった。私も云わなかった。
 これは私の若い時のことである。それから三、四年の後に、「金色夜叉《こんじきやしゃ》」の塩原《しおばら》温泉の件《くだ》りが読売新聞紙上に掲げられた。それを読みながら、私はかんがえた。私がもし一ヵ月以前にかの旅館に投宿して、間貫一《はざまかんいち》とおなじように、隣り座敷の心中の相談をぬすみ聴いたとしたならば、私はどんな処置を取ったであろうか。貫一のように何千円の金を無雑作に投げ出す力がないとすれば、所詮は宿の者に密告して、ひとまず彼らの命をつなぐというような月並の手段を取るのほかはあるまい。貫一のような金持でなければ、ああいう立派な解決は付けられそうもない。
「金色夜叉」はやはり小説であると、わたしは思った。[#地付き](昭和6・7「朝日新聞」)
[#改丁、ページの左右中央に]

   ※[#ローマ数字3、1−13−23] 暮らしの流れ

[#改丁]


素人脚本の歴史


 雑誌の人が来て、何か脚本の話を書けという。ともかくも安請合いに受け合ったものの、さて何を書いてよいか判らない。現在日本の演劇《しばい》をどう書いてよいのか、自分も実は宇宙に迷って行き悩んでいるのであるから、とてもここで大きい声で脚本の書き方などを講釈するわけには行かない。何か偉そうなことをうっかり喋《しゃ》べってしまって、その議論が自分自身でも明日はすっかり変ってしまうようなことが無いとも限らない。で、そんな危《あぶ》ないことには手を着けないことにして、ここでは自分がこれまで書いた七、八十種の脚本に就いて、一種の経験談のようなものを書き列《なら》べて見ようかとも思ったが、それも長くなるのでやめた。ここではただ、素人《しろうと》の書いた脚本がどうして世に出るようになったかという歴史を少しばかり書く。
 わたしはここで自分の自叙伝を書こうとするのではない。しかし自分の関係したことを主題にして何か語ろうという以上、自然に多く自分を説くことになるかも知れない。それはあらかじめお含み置きを願っておきたい。

 わたしが脚本というものに筆を染めた処女作は「紫宸殿《ししんでん》」という一幕物で、頼政《よりまさ》の鵺《ぬえ》退治を主題にした史劇であった。後に訂正して、明治二十九年九月の歌舞伎新報に掲載されたが、勿論《もちろん》、どこの劇場でも採用される筈《はず》はなかった。その翌年の二月、條野採菊《じょうのさいぎく》翁が伊井蓉峰《いいようほう》君に頼まれて「茲江戸子《ここがえどっこ》」という六幕物を書くことになった。故|榎本武揚《えのもとたけあき》子爵の五稜郭《ごりょうかく》戦争を主題《テーマ》にしたものである。採菊翁は多忙だということで、榎本|虎彦《とらひこ》君と私とが更に翁の依頼をうけて二幕ずつを分担して執筆することになった。筋は無論、翁から割当てられたもので、自分たち二人はほとんどその口授のままを補綴《ほてい》したに過ぎなかった。劇場は後の宮戸座《みやとざ》であった。
 それが三月の舞台に上《のぼ》ったのを観ると、わたしは失望した。私が書いた部分はほとんど跡形もないほど変っていた。私はそれを榎本君に話すと、榎本君は笑いながら「それだから僕は観に行かないよ」と云った。榎本君は福地桜痴《ふくちおうち》先生に従って、楽屋の空気にもう馴れている人である。榎本君の眼には、年の若い私の無経験がむしろ可笑《おかし》く思われたかも知れなかった。採菊翁自身が執筆の部分はどうだか知れないが、榎本君が担当の部分にも余程の大鉈《おおなた》を加えられていたらしかった。勿論、この時代にはそれがむしろ普通のことで、素人《しろうと》――榎本君は素人ではないが、その当時はまだ其の伎倆《ぎりょう》を認められていなかった――が寄り集まって書いた脚本が、こういう風に鉈を加えられたり、鱠《なます》にされたりするのは、あらかじめ覚悟してかからなければならないのであった。わたしが榎本君に対して不平らしい口吻《こうふん》を洩らしたのは、要するに演劇《しばい》の事情というものに就《つ》いて私の盲目を証拠立てているのであった。
「素人の書いたものは演劇にならない。」
 それが此の時代に於いては動かすべからざる格言《モットー》として何人《なんぴと》にも信ぜられていた。劇場内部のいわゆる玄人《くろうと》は勿論のこと、外部の素人もみんなそう信じていた。今日《こんにち》の眼から観れば、みずから侮《あなど》ること甚《はなは》だしいようにも思われるかも知れないが、なんと理窟を云っても劇場当事者の方で受付けてくれないのであるから、外部の素人は田作《ごまめ》の歯ぎしりでどうにもならない。たとい鉈でぶっかかれても鱠にきざまれても、採用されれば非常の仕合せで、鉈にも鱠にも最初から問題にされてはいないのであった。もっとも福地先生はこういうことを云っていられた。
「いくら楽屋の者が威張っても仕方がない。今のままでいれば、やがて素人の世界になるよ。」
 しかし、この世界がいつ自分たちの眼の前に開かれるか。ほとんど見当が付かなかった。福地先生は外部から脚本を容れることを拒《こば》むような人ではなかった。むしろ大抵の場合には「結構です」と云って推薦するのを例としていた。しかも推薦されるような脚本はちっとも提供されなかった。それには二種の原因があった。第一には、たとい福地先生は何と云おうとも、劇場全体に素人を侮蔑《ぶべつ》する空気が充満していて、外部から輸入される一切の脚本は先ず敬して遠ざけるという方針が暗々のうちに成立っていたのである。第二には、どんな鉈を受けても、鱠にされても、何でもかでも上場されればいいと云って提出されるような脚本は、実際に於いて其の品質が劣っていた。また、ある程度まで其の品質に見るべきものがあるような脚本を書き得る人は、鉈や鱠の拷問《ごうもん》に堪えられなかった。
 以上の理由で、どの道、外部から新しい脚本を求めるということは不可能の状態にあった。劇場当事者の方でも強《し》いて求めようとはしなかった。いわゆる玄人と素人との間には大いなる溝《みぞ》があった。
 もう一つには、団菊左《だんきくさ》と云うような諸名優が舞台を踏まえていて、たとい脚本そのものはどうであろうとも、これらの技芸に対する世間の信仰が相当の観客を引き寄せるに何らの不便を感ぜしめなかったからである。こういう種々の原因が絡《から》み合って、内部と外部との中間には、袖萩《そではぎ》が取りつくろっている小柴垣《こしばがき》よりも大きい関が据えられて、戸を叩くにも叩かれぬ鉄《くろがね》の門が高く鎖《と》ざされていたのであった。
「どうぞお慈悲にただ一言《ひとこと》……。」
 お君《きみ》の袖乞いことばを真似るのが忌《いや》な者は、黙って門の外に立っているよりほかはなかった。

 ところが、やがて其の厳しい門を押し破って、和田《わだ》合戦の板額《はんがく》のように闖入《ちんにゅう》した勇者があらわれた。その闖入者は松居松葉《まついしょうよう》君であった。この門破りが今日の人の想像するような、決して容易なものではない。松葉君の悪戦は実に想像するに余りある位で、彼はブラツデーネスになったに相違ない。そうして明治三十二年の秋に、明治座で史劇「悪源太《あくげんた》」を上場することになった。俳優は初代の左団次《さだんじ》一座であった。続いて三十四年の秋に、同じく明治座で「源三位《げんざんみ》」を書いた。つづいて「後藤又兵衛《ごとうまたべえ》」や「敵国降伏」や「ヱルナニー」が出た。
「素人の書いたものでも商売になる。」
 こういう理屈がいくらか劇場内部の人たちにも理解されるようになって来た。わたしは松葉君よりも足かけ四年おくれて、明治三十五年の歌舞伎座一月興行に「金鯱噂高浪《こがねのしゃちうわさのたかなみ》」という四幕物を上場することになった。これに就《つ》いては岡鬼太郎《おかおにたろう》君が大いに力がある。その春興行には五世|菊五郎《きくごろう》が出勤する筈であったが、病気で急に欠勤することになって、一座は芝翫《しかん》(後の歌右衛門《うたえもん》)、梅幸《ばいこう》、八百蔵《やおぞう》(後の中車《ちゅうしゃ》)、松助《まつすけ》、家橘《かきつ》(後の羽左衛門《うざえもん》)、染五郎《そめごろう》(後の幸四郎《こうしろう》)というような顔触れで、
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