綺堂むかし語り
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)竹|竿《ざお》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]

 [#…]:返り点
 (例)「虫声満[#レ]地」

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おでんや/\と呼んで来る。
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目次

※[#ローマ数字1、1−13−21] 思い出草
 思い出草
 島原の夢
 昔の小学生より
 三崎町の原
 御堀端三題
 銀座
 夏季雑題
 雷雨
 鳶
 旧東京の歳晩
 新旧東京雑題
 ゆず湯
※[#ローマ数字2、1−13−22] 旅つれづれ
 昔の従軍記者
 苦力とシナ兵
 満洲の夏
 仙台五色筆
 秋の修善寺
 春の修善寺
 妙義の山霧
 磯部の若葉
 栗の花
 ランス紀行
 旅すずり
 温泉雑記
※[#ローマ数字3、1−13−23] 暮らしの流れ
 素人脚本の歴史
 人形の趣味
 震災の記
 十番雑記
 風呂を買うまで
 郊外生活の一年
 薬前薬後
 私の机
 読書雑感
 回想・半七捕物帳
 歯なしの話
 我が家の園芸
 最後の随筆
[#改丁、ページの左右中央に]

   ※[#ローマ数字1、1−13−21] 思い出草

[#改丁]


思い出草


     赤蜻蛉

 私は麹町《こうじまち》元園町《もとぞのちょう》一丁目に約三十年も住んでいる。その間に二、三度転宅したが、それは単に番地の変更にとどまって、とにかくに元園町という土地を離れたことはない。このごろ秋晴れの朝、巷《ちまた》に立って見渡すと、この町も昔とはずいぶん変ったものである。懐旧の感がむらむらと湧く。
 江戸《えど》時代に元園町という町はなかった。このあたりは徳川《とくがわ》幕府の調練場となり、維新後は桑茶栽付所となり、さらに拓《ひら》かれて町となった。昔は薬園であったので、町名を元園町という。明治八年、父が初めてここに家を建てた時には、百坪の借地料が一円であったそうだ。
 わたしが幼い頃の元園町は家並がまだ整わず、到るところに草原があって、蛇《へび》が出る、狐《きつね》が出る、兎《うざぎ》が出る、私の家のまわりにも秋の草が一面に咲き乱れていて、姉と一緒に笊《ざる》を持って花を摘みに行ったことを微《かす》かに記憶している。その草叢《くさむら》の中には、ところどころに小さい池や溝川《どぶがわ》のようなものもあって、釣りなどをしている人も見えた。
 蟹《かに》や蜻蛉《とんぼ》もたくさんにいた。蝙蝠《こうもり》の飛ぶのもしばしば見た。夏の夕暮れには、子供が草鞋《わらじ》を提《さ》げて「蝙蝠来い」と呼びながら、蝙蝠を追い廻していたものだが、今は蝙蝠の影など絶えて見ない。秋の赤蜻蛉、これがまた実におびただしいもので、秋晴れの日には小さい竹|竿《ざお》を持って往来に出ると、北の方から無数の赤とんぼがいわゆる雲霞《うんか》の如くに飛んで来る。これを手当り次第に叩《たた》き落すと、五分か十分のあいだに忽《たちま》ち数十匹の獲物《えもの》があった。今日《こんにち》の子供は多寡《たか》が二|疋《ひき》三疋の赤蜻蛉を見つけて、珍しそうに五人六人もで追い廻している。
 きょうは例の赤とんぼ日和《びより》であるが、ほとんど一疋も見えない。わたしは昔の元園町がありありと眼の先に泛《う》かんで、年ごとに栄えてゆく此の町がだんだんに詰まらなくなって行くようにも感じた。

     茶碗

 O君が来て古い番茶茶碗を呉《く》れた。おてつ牡丹餅《ぼたもち》の茶碗である。
 おてつ牡丹餅は維新前から麹町の一名物であった。おてつという美人の娘が評判になったのである。元園町一丁目十九番地の角店《かどみせ》で、その地続きが元は徳川幕府の薬園、後には調練場となっていたので、若い侍などが大勢《おおぜい》集まって来る。その傍《わき》に美しい娘が店を開いていたのであるから、評判になったも無理はない。
 おてつの店は明治十八、九年頃まで営業を続けていたかと思う。私の記憶に残っている女主人のおてつは、もう四十くらいであったらしい。眉《まゆ》を落して歯を染めた、小作りの年増《としま》であった。聟《むこ》を貰《もら》ったがまた別れたとかいうことで、十一、二の男の児《こ》を持っていた。美しい娘も老いておもかげが変ったのであろう、私の稚《おさな》い眼には格別の美人とも見えなかった。店の入口には小さい庭があって、飛び石伝いに奥へはいるようになっていた。門のきわには高い八つ手が栽《う》えてあって、その葉かげに腰をかがめておてつが毎朝入口を掃《は》いているのを見た。汁粉《しるこ》と牡丹餅とを売っているのであるが、私の知っている頃には店もさびれて、汁粉も牡丹餅も余り旨《うま》くはなかったらしい。近所ではあったが、わたしは滅多《めった》に食いに行ったことはなかった。
 おてつ牡丹餅の跡へは、万屋《よろずや》という酒屋が移って来て、家屋も全部新築して今日まで繁昌《はんじょう》している。おてつ親子は麻布《あざぶ》の方へ引っ越したとか聞いているが、その後の消息は絶えてしまった。
 わたしの貰《もら》った茶碗はそのおてつの形見である。O君の阿父《おとっ》さんは近所に住んでいて、昔からおてつの家とは懇意《こんい》にしていた。維新の当時、おてつ牡丹餅は一時閉店するつもりで、その形見と云ったような心持で、店の土瓶《どびん》や茶碗などを知己《しるべ》の人々に分配した。O君の阿父《おとっ》さんも貰った。ところが、何かの都合からおてつは依然その営業をつづけていて、私の知っている頃までやはりおてつ牡丹餅の看板を懸けていたのである。
 汁粉屋の茶碗と云うけれども、さすがに維新前に出来たものだけに、焼きも薬も悪くない。平仮名でおてつと大きく書いてある。わたしは今これを自分の茶碗に遣《つか》っている。しかし此《こ》の茶碗には幾人の唇《くちびる》が触れたであろう。
 今この茶碗で番茶をすすっていると、江戸時代の麹町が湯気のあいだから蜃気楼《しんきろう》のように朦朧《もうろう》と現われて来る。店の八つ手はその頃も青かった。文金《ぶんきん》高島田にや[#「や」に傍点]の字の帯を締めた武家の娘が、供の女を連れて徐《しず》かにはいって来た。娘の長い袂《たもと》は八つ手の葉に触れた。娘は奥へ通って、小さい白扇を遣っていた。
 この二人の姿が消えると、芝居で観る久松《ひさまつ》のような丁稚《でっち》がはいって来た。丁稚は大きい風呂敷包みをおろして縁《えん》に腰をかけた。どこへか使いに行く途中と見える。彼は人に見られるのを恐れるように、なるたけ顔を隠して先《ま》ず牡丹餅を食った。それから汁粉を食った。銭を払って、前垂れで口を拭《ふ》いて、逃げるようにこそこそ[#「こそこそ」に傍点]と出て行った。
 講武所《こうぶしょ》ふうの髷《まげ》に結《ゆ》って、黒|木綿《もめん》の紋付、小倉《こくら》の馬乗り袴《ばかま》、朱鞘《しゅざや》の大小の長いのをぶっ込んで、朴歯《ほおば》の高い下駄をがらつかせた若侍が、大手を振ってはいって来た。彼は鉄扇《てっせん》を持っていた。悠々と蒲団《ふとん》の上にすわって、角《つの》細工の骸骨《がいこつ》を根付《ねつけ》にした煙草《たばこ》入れを取り出した。彼は煙りを強く吹きながら、帳場に働くおてつの白い横顔を眺めた。そうして、低い声で頼山陽《らいさんよう》の詩を吟じた。
 町の女房らしい二人連れが日傘を持ってはいって来た。かれらも煙草入れを取り出して、鉄漿《おはぐろ》を着けた口から白い煙りを軽く吹いた。山の手へ上《のぼ》って来るのはなかなかくたびれると云った。帰りには平河《ひらかわ》の天神さまへも参詣して行こうと云った。
 おてつと大きく書かれた番茶茶碗は、これらの人々の前に置かれた。調練場の方ではどッと云う鬨《とき》の声が揚がった。焙烙《ほうろく》調練が始まったらしい。
 わたしは巻煙草を喫《の》みながら、椅子《いす》に寄りかかって、今この茶碗を眺めている。かつてこの茶碗に唇《くちびる》を触れた武士も町人も美人も、皆それぞれの運命に従って、落着く所へ落着いてしまったのであろう。

     芸妓

 有名なおてつ牡丹餅の店が私の町内の角に存していたころ、その頃の元園町には料理屋も待合も貸席もあった。元園町と接近した麹町四丁目には芸妓屋《げいしゃや》もあった。わたしが名を覚えているのは、玉吉、小浪などという芸妓で、小浪は死んだ。玉吉は吉原《よしわら》に巣を替えたとか聞いた。むかしの元園町は、今のような野暮《やぼ》な町では無かったらしい。
 また、その頃のことで私がよく記憶しているのは、道路のおびただしく悪いことで、これは確かに今の方がよい。下町《したまち》は知らず、われわれの住む山の手では、商家でも店でこそランプを用《もち》いたれ、奥の住居《すまい》ではたいてい行燈《あんどう》をとぼしていた。家によっては、店先にも旧式のカンテラを用いていたのもある。往来に瓦斯《ガス》燈もない、電燈もない、軒ランプなども無論なかった。したがって、夜の暗いことはほとんど今の人の想像の及ばないくらいで、湯に行くにも提灯《ちょうちん》を持ってゆく。寄席《よせ》に行くにも提灯を持ってゆく。おまけに路がわるい。雪どけの時などには、夜はうっかり歩けないくらいであった。しかし今日《こんにち》のように追剥《おいは》ぎや出歯亀《でばかめ》の噂《うわさ》などは甚《はなは》だ稀《まれ》であった。
 遊芸の稽古《けいこ》所と云うものもいちじるしく減じた。私の子供の頃には、元園町一丁目だけでも長唄の師匠が二、三軒、常磐津《ときわづ》の師匠が三、四軒もあったように記憶しているが、今ではほとんど一軒もない。湯帰りに師匠のところへ行って、一番|唸《うな》ろうという若い衆も、今では五十銭均一か何かで新宿《しんじゅく》へ繰り込む。かくの如くにして、江戸っ子は次第に亡《ほろ》びてゆく。浪花節の寄席が繁昌《はんじょう》する。
 半鐘《はんしょう》の火の見|梯子《ばしご》と云うものは、今は市中に跡を絶ったが、わたしの町内にも高い梯子があった。或る年の秋、大嵐のために折れて倒れて、凄まじい響きに近所を驚かした。翌《あく》る朝、私が行ってみると、梯子は根もとから見事に折れて、その隣りの垣を倒していた。その頃には烏瓜《からすうり》が真っ赤に熟して、蔓《つる》や葉が搦《から》み合ったままで、長い梯子と共に横たわっていた。その以来、わたしの町内に火の見梯子は廃せられ、そのあとに、関《せき》運漕店の旗竿が高く樹《た》っていたが、それも他に移って、今では立派な紳士の邸宅になっている。

     西郷星

 かの西南|戦役《せんえき》は、わたしの幼い頃のことで何んにも知らないが、絵草紙屋《えぞうしや》の店にいろいろの戦争絵のあったのを記憶している。いずれも三枚続きで、五銭くらい。また、そのころ流行《はや》った唄に、
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 ※[#歌記号、1−3−28]紅《あか》い帽子《シャッポ》は兵隊さん、西郷に追われて、
 トッピキピーノピー。
[#ここで字下げ終わり]
 今思えば十一年八月二十三日の夜であった。夜半《よなか》に近所の人がみな起きた。私の家でも起きて戸を明けると、何か知らないがポンポンパチパチいう音がきこえる。父は鉄砲の音だと云う。母は心配する、姉は泣き出す。父は表へ見に出たが、やがて帰って来て、「なんでも竹橋《たけばし》内で騒動が起きたらしい。時どきに流れだまが飛んで来るから戸を閉めて置け。」と云う。わたしは衾《よぎ》をかぶって蚊帳《かや》の中に小さくなっていると、暫《しばらく》くしてパチパチの音も止《や》んだ。これは近衛《このえ》兵の一部が西南|役《えき》の論
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