功行賞《ろんこうこうしょう》に不平を懐《いだ》いて、突然暴挙を企てたものと後に判った。
 やはり其の年の秋と記憶している。毎夜東の空に当って箒星《ほうきぼし》が見えた。誰が云い出したか知らないが、これを西郷星《さいごうぼし》と呼んで、さき頃のハレー彗星《すいせい》のような騒ぎであった。しまいには錦絵まで出来て、西郷|桐野《きりの》篠原《しのはら》らが雲の中に現われている図などが多かった。
 また、その頃に西郷鍋というものを売る商人が来た。怪しげな洋服に金紙《きんがみ》を着けて金モールと見せ、附け髭《ひげ》をして西郷の如く拵《こしら》え、竹の皮で作った船のような形の鍋を売る、一個一銭。勿論《もちろん》、一種の玩具《おもちゃ》に過ぎないのであるが、なにしろ西郷というのが呼び物で、大繁昌であった。私などは母にせがんで幾度も買った。
 そのほかにも西郷糖という菓子を売りに来たが、「あんな物を食っては毒だ。」と叱《しか》られたので、買わずにしまった。

     湯屋

 湯屋《ゆうや》の二階というものは、明治十八、九年の頃まで残っていたと思う。わたしが毎日入浴する麹町四丁目の湯屋にも二階があって、若い小綺麗《こぎれい》な姐《ねえ》さんが二、三人居た。
 わたしが七つか八つの頃、叔父に連れられて一度その二階に上がったことがある。火鉢に大きな薬罐《やかん》が掛けてあって、そのわきには菓子の箱が列《なら》べてある。のちに思えば例の三馬《さんば》の「浮世風呂」をその儘《まま》で、茶を飲みながら将棋をさしている人もあった。
 時はちょうど五月の初めで、おきよさんという十五、六の娘が、菖蒲《しょうぶ》を花瓶《かびん》に挿《さ》していたのを記憶している。松平紀義《まつだいらのりよし》のお茶《ちゃ》の水《みず》事件で有名な御世梅《ごせめ》お此《この》という女も、かつてこの二階にいたと云うことを、十幾年の後に知った。
 その頃の湯風呂には、旧式の石榴口《ざくろぐち》と云うものがあって、夜などは湯煙《ゆげ》が濛々《もうもう》として内は真っ暗。しかもその風呂が高く出来ているので、男女ともに中途の階段を登ってはいる。石榴口には花鳥風月もしくは武者絵などが画《か》いてあって、私のゆく四丁目の湯では、男湯の石榴口に水滸伝《すいこでん》の花和尚《かおしょう》と九紋龍《くもんりゅう》、女湯の石榴口には例の西郷桐野篠原の画像が掲げられてあった。
 男湯と女湯とのあいだは硝子《ガラス》戸で見透かすことが出来た。これを禁止されたのはやはり十八、九年の頃であろう。今も昔も変らないのは番台の拍子木の音。

     紙鳶

 春風が吹くと、紙鳶《たこ》を思い出す。暮れの二十四、五日ごろから春の七草《ななくさ》、すなわち小学校の冬季休業のあいだは、元園町十九と二十の両番地に面する大通り(麹町三丁目から靖国《やすくに》神社に至る通路)は、紙鳶を飛ばすわれわれ少年軍によってほとんど占領せられ、年賀の人などは紙鳶の下をくぐって往来したくらいであった。暮れの二十日頃になると、玩具《おもちゃ》屋駄菓子店などまでがほとんど臨時の紙鳶屋に化けるのみか、元園町の角には市商人《いちあきうど》のような小屋掛けの紙鳶屋が出来た。印半纒《しるしばんてん》を着た威勢のいい若い衆の二、三人が詰めていて、糸目を付けるやら鳴弓《うなり》を張るやら、朝から晩まで休みなしに忙がしい。その店には、少年軍が隊をなして詰め掛けていた。
 紙鳶は種類もいろいろあったが、普通は字紙鳶《じだこ》、絵紙鳶、奴《やっこ》紙鳶で、一枚、二枚、二枚半、最も多いのは二枚半で、四枚六枚となっては子供には手が付けられなかった。二枚半以上の大《おお》紙鳶は、職人か、もしくは大家《たいけ》の書生などが揚げることになっていた。松の内は大供《おおども》小供《こども》入り乱れて、到るところに糸を手繰《たぐ》る。またその間に娘子供は羽根を突く。ぶんぶんという鳴弓の声、かっかっという羽子《はご》の音。これがいわゆる「春の声」であったが、十年以来の春の巷は寂々寥々《せきせきりょうりょう》。往来で迂闊《うかつ》に紙鳶などを揚げていると、巡査が来てすぐに叱られる。
 寒風に吹き晒《さら》されて、両手に胼《ひび》を切らせて、紙鳶に日を暮らした三十年前の子供は、随分乱暴であったかも知れないが、襟巻《えりまき》をして、帽子をかぶって、マントにくるまって懐《ふとこ》ろ手をして、無意味にうろうろ[#「うろうろ」に傍点]している今の子供は、春が来ても何だか寂しそうに見えてならない。

     獅子舞

 獅子《しし》というものも甚だ衰えた。今日《こんにち》でも来るには来るが、いわゆる一文獅子《いちもんじし》というものばかりで、ほんとうの獅子舞はほとんど跡を断った。明治二十年頃までは随分立派な獅子舞いが来た。まず一行数人、笛を吹く者、太鼓を打つ者、鉦《かね》を叩く者、これに獅子舞が二人もしくは三人附き添っている。獅子を舞わすばかりでなく、必ず仮面《めん》をかぶって踊ったもので、中にはすこぶる巧みに踊るのがあった。かれらは門口《かどぐち》で踊るのみか、屋敷内へも呼び入れられて、いろいろの芸を演じた。鞠《まり》を投げて獅子の玉取りなどを演ずるのは、余ほどむずかしい芸だとか聞いていた。
 元園町には竹内《たけうち》さんという宮内省の侍医が住んでいて、新年には必ずこの獅子舞を呼び入れていろいろの芸を演じさせ、この日に限って近所の子供を邸《やしき》へ入れて見物させる。竹内さんに獅子が来たと云うと、子供は雑煮の箸《はし》を投《ほお》り出して皆んな駈け出したものであった。その邸は二十七、八年頃に取り毀《こわ》されて、その跡に数軒の家が建てられた。私が現在住んでいるのは其の一部である。元園町は年毎に栄えてゆくと同時に、獅子を呼んで子供に見せてやろうなどと云うのんびりした人は、だんだんに亡びてしまった。口を明いて獅子を見ているような奴は、いちがいに馬鹿だと罵《ののし》られる世の中となった。眉が険《けわ》しく、眼が鋭い今の元園町人は、獅子舞を見るべく余りに怜悧《りこう》になった。
 万歳《まんざい》は維新以後全く衰えたと見えて、わたしの幼い頃にも已《すで》に昔のおもかげはなかった。

     江戸の残党

 明治十五、六年の頃と思う。毎日午後三時頃になると、一人のおでん屋が売りに来た。年は四十五、六でもあろう、頭には昔ながらの小さい髷《まげ》を乗せて、小柄ではあるが色白の小粋《こいき》な男で、手甲脚絆《てっこうきゃはん》のかいがいしい扮装《いでたち》をして、肩にはおでんの荷を担ぎ、手には渋団扇《しぶうちわ》を持って、おでんや/\と呼んで来る。実に佳《い》い声であった。
 元園町でも相当の商売があって、わたしもたびたび買ったことがある。ところが、このおでん屋は私の父に逢うと互いに挨拶《あいさつ》をする。子供心に不思議に思って、だんだん聞いてみると、これは市ヶ谷《いちがや》辺に屋敷を構えていた旗本八万騎の一人で、維新後思い切って身を落し、こういう稼業を始めたのだと云う。あの男も若い時にはなかなか道楽者であったと、父が話した。なるほど何処《どこ》かきりりとして小粋なところが、普通の商人《あきんど》とは様子が違うと思った。その頃にはこんな風の商人がたくさんあった。
 これもそれと似寄りの話で、やはり十七年の秋と思う。わたしが、父と一緒に四谷《よつや》へ納涼《すずみ》ながら散歩にゆくと、秋の初めの涼しい夜で、四谷伝馬町《よつやてんまちょう》の通りには幾軒の露店《よみせ》が出ていた。そのあいだに筵《むしろ》を敷いて大道《だいどう》に坐っている一人の男が、半紙を前に置いて頻《しき》りに字を書いていた。今日では大道で字を書いていても、銭《ぜに》を呉れる人は多くあるまいと思うが、その頃には通りがかりの人がその字を眺めて幾許《いくら》かの銭を置いて行ったものである。
 わたしらも其の前に差しかかると、うす暗いカンテラの灯影にその男の顔を透かして視《み》た父は、一|間《けん》ばかり行き過ぎてから私に二十銭紙幣を渡して、これをあの人にやって来いと命じ、かつ遣《や》ったらば直《す》ぐに駈けて来いと注意された。乞食同様の男に二十銭はちっと多過ぎると思ったが、云わるるままに札《さつ》を掴《つか》んでその店先へ駈けて行き、男の前に置くや否《いな》や一散《いっさん》に駈け出した。これに就いては、父はなんにも語らなかったが、おそらく前のおでん屋と同じ運命の人であったろう。
 この男を見た時に、「霜夜鐘《しものよのかね》」の芝居に出る六浦《むつら》正三郎というのはこんな人だろうと思った。その時に彼は半紙に向って「……茶立虫《ちゃたてむし》」と書いていた。上の文字は記憶していないが、おそらく俳句を書いていたのであろう。今日でも俳句その他で、茶立虫という文字を見ると、夜露の多い大道に坐って、茶立虫と書いていた浪人者のような男の姿を思い出す。江戸の残党はこんな姿で次第に亡びてしまったものと察せられる。

     長唄の師匠

 元園町に接近した麹町三丁目に、杵屋《きねや》お路久《ろく》という長唄の師匠が住んでいた。その娘のお花《はな》さんと云うのが評判の美人であった。この界隈《かいわい》の長唄の師匠では、これが一番繁昌して、私の姉も稽古にかよった。三宅花圃《みやけかほ》女史もここの門弟であった。お花さんは十九年頃のコレラで死んでしまって、お路久さんもつづいて死んだ。一家ことごとく離散して、その跡は今や阪川牛乳店の荷車置場になっている。長唄の師匠と牛乳屋、おのずからなる世の変化を示しているのも不思議である。

     お染風

 この春はインフルエンザが流行した。
 日本で初めて此の病いがはやり出したのは明治二十三年の冬で、二十四年の春に至ってますます猖獗《しょうけつ》になった。われわれは其の時初めてインフルエンザという病いを知って、これはフランスの船から横浜に輸入されたものだと云う噂を聞いた。しかし其の当時はインフルエンザと呼ばずに普通はお染風《そめかぜ》と云っていた。なぜお染という可愛らしい名をかぶらせたかと詮議《せんぎ》すると、江戸時代にもやはりこれによく似た感冒が非常に流行して、その時に誰かがお染という名を付けてしまった。今度の流行性感冒もそれから縁を引いてお染と呼ぶようになったのだろうと、或る老人が説明してくれた。
 そこで、お染という名を与えた昔の人の料簡《りょうけん》は、おそらく恋風と云うような意味で、お染が久松《ひさまつ》に惚れたように、すぐに感染するという謎であるらしく思われた。それならばお染に限らない。お夏《なつ》でもお俊《しゅん》でも小春《こはる》でも梅川《うめがわ》でもいい訳であるが、お染という名が一番|可憐《かれん》らしくあどけなく聞える。猛烈な流行性をもって往々に人を斃《たお》すような此の怖るべき病いに対して、特にお染という最も可愛らしい名を与えたのは頗《すこぶ》るおもしろい対照である、さすがに江戸っ子らしいところがある。しかし、例の大《おお》コレラが流行した時には、江戸っ子もこれには辟易《へきえき》したと見えて、小春とも梅川とも名付け親になる者がなかったらしい。ころり[#「ころり」に傍点]と死ぬからコロリだなどと知恵のない名を付けてしまった。
 すでに其の病いがお染と名乗る以上は、これに※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]《よ》りつかれる患者は久松でなければならない。そこで、お染の闖入《ちんにゅう》を防ぐには「久松留守」という貼札をするがいいと云うことになった。新聞にもそんなことを書いた。勿論《もちろん》、新聞ではそれを奨励した訳ではなく、単に一種の記事として、昨今こんなことが流行すると報道したのであるが、それがいよいよ一般の迷信を煽《あお》って、明治二十三、四年頃の東京には「久松留守」と書いた紙札を軒に貼り付けることが流行した。中には露骨に「お染御免」と書いたのもあった。
 
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