ルメットを売っているのもある。おそらく戦場で拾ったものであろう。その値をきいたら九十フランだと云った。勿論、云い値で買う人はない。ある人は五十フランに値切って二つ買ったとか話していた。
「なにしろ暑い。」
異口同音に叫びながら、停車場のカフェーへ駈け込んで、一息にレモン水を二杯のんで、顔の汗とほこりを忙がしそうに拭いていると、四時三十分の汽車がもう出るという。あわてて車内に転がり込むと、それがまた延着して、八時を過ぎる頃にようようパリに送り還された。[#地付き](大正8・9「新小説」)
この紀行は大正八年の夏、パリの客舎で書いたものである。その当時、かのランスの戦場のような、むしろそれ以上のおそろしい大破壊を四年後の東京のまん中で見せ付けられようとは、思いも及ばないことであった。よそ事のように眺めて来た大破壊のあとが、今やありありと我が眼のまえに拡げられているではないか。わたしはまだ異国の夢が醒めないのではないかと、時どきに自分を疑うことがある。[#地付き](大正十二年十月追記『十番随筆』所収)
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旅すずり
(一)心太
川越《かわごえ》の喜多院《きたいん》に桜を観る。ひとえはもう盛りを過ぎた。紫衣《しい》の僧は落花の雪を袖に払いつつ行く。境内《けいだい》の掛茶屋にはいって休む。なにか食うものはないかと婆さんにきくと、心太《ところてん》ばかりだと云う。試みに一皿を買えば、あたい八厘。
花をさそう風は梢をさわがして、茶店の軒も葭簀《よしず》も一面に白い。わたしは悠然として心太を啜《すす》る。天海《てんかい》僧正の墓のまえで、わたしは少年の昔にかえった。[#地付き](明治32・4)
(二)天狗
広島《ひろしま》の街《まち》をゆく。冬の日は陰って寒い。
忽《たちま》ちに横町から天狗があらわれた。足駄《あしだ》を穿いて、矛《ほこ》をついて、どこへゆくでもなし、迷うが如くに徘徊《はいかい》している。一人ならず、そこからも此処《ここ》からも現われた。みな十二、三歳の子供である。
宿に帰って聞けば、きょうは亥子《いのこ》の祭りだという。あまたの小天狗はそれがために出現したらしい。空はやがて時雨《しぐれ》となった。神通力《じんつうりき》のない天狗どもは、雨のなかを右往左往に逃げてゆく。その父か叔父であろう。四十前後の大男は、ひとりの天狗を小脇に抱えて駈け出した。[#地付き](明治37・11)
(三)鼓子花
午後三時頃、白河《しらかわ》停車場前の茶店に休む。隣りの床几《しょうぎ》には二十四、五の小粋な女が腰をかけていた。女は茶店の男にむかって、黒磯《くろいそ》へゆく近路を訊いている。あるいてゆく積りらしい。
まあ、ともかくも行ってみようかと独り言を云いながら、女は十銭の茶代を置いて出た。
茶屋女らしいねと私が云えば、どうせ食詰者《くいつめもの》でしょうよと、店の男は笑いながら云った。
夏の日は暑い。垣の鼓子花《ひるがお》は凋《しお》れていた。[#地付き](明治39・8)
(四)唐辛
日光の秋八月、中禅寺《ちゅうぜんじ》をさして旧道をたどる。
紅い鳥が、青い樹間《このま》から不意に飛び出した。形は山鳩に似て、翼《つばさ》も口嘴《くちばし》もみな深紅《しんく》である。案内者に問えば、それは俗に唐辛《とうがらし》といい、鳴けば必ず雨がふるという。
鳥はたちまち隠れてみえず、谷を隔ててふた声、三声。われわれは恐れて路を急いだ。
仲の茶屋へ着く頃には、山も崩るるばかりの大雨《おおあめ》となった。[#地付き](明治43・8)
(五)夜泊の船
船は門司《もじ》に泊《かか》る。小春の海は浪おどろかず、風も寒くない。
酒を売る船、菓子を売る船、うろうろと漕ぎまわる。石炭をつむ女の手拭が白い。
対岸の下関《しものせき》はもう暮れた。寿永《じゅえい》のみささぎはどの辺であろう。
なにを呼ぶか、人の声が水に響いて遠近《おちこち》にきこえる。四面のかかり船は追いおいに灯を掲げた。すべて源氏の船ではあるまいか。わたしは敵に囲まれたように感じた。[#地付き](明治39・11)
(六)蟹
遼陽城外、すべて緑楊《りょくよう》の村である。秋雨《あきさめ》の晴れたゆうべに宿舎の門《かど》を出ると、斜陽は城楼の壁に一抹《いちまつ》の余紅《よこう》をとどめ、水のごとき雲は喇嘛《ラマ》塔を掠《かす》めて流れてゆく。
南門外は一面の畑で、馬も隠るるばかりの高梁《コウリャン》が、俯しつ仰ぎつ秋風に乱れている。
村落には石の井《いど》があって、その辺は殊に楊《やなぎ》が多い。楊の下には清《しん》国人が籃《かご》をひらいて蟹《かに》を売っている。蟹の大なるは尺を越えたのもある。
「半江紅樹売[#二]鱸魚[#一]」は王漁洋《おうぎょよう》の詩である。夕陽村落、楊の深いところに蟹を売っているのも、一種の詩料になりそうな画趣で、今も忘れない。[#地付き](明治37・10)
(七)三条大橋
京は三条のほとりに宿った。六月はじめのあさ日は鴨川《かもがわ》の流れに落ちて、雨後の東山《ひがしやま》は青いというよりも黒く眠っている。
このあたりで名物という大津《おおつ》の牛が柴車《しばぐるま》を牽《ひ》いて、今や大橋を渡って来る。その柴の上には、誰《た》が風流ぞ、むらさきの露のしたたる菖蒲の花が挟んである。
紅い日傘をさした舞妓《まいこ》が橋を渡って来て、あたかも柴車とすれ違ってゆく。
所は三条大橋、前には東山、見るものは大津牛、柴車、花菖蒲、舞妓と絵日傘――京の景物はすべてここに集まった。[#地付き](明治42・6)
(八)木蓼
信濃《しなの》の奥にふみ迷って、おぼつかなくも山路をたどる夏のゆうぐれに、路ばたの草木の深いあいだに白点々、さながら梅の花の如きを見た。
後に聞けば、それは木蓼《またたび》の花だという。猫にまたたびの諺《ことわざ》はかねて聞いていたが、その花を見るのは今が初めであった。
天地|蒼茫《そうぼう》として暮れんとする夏の山路に、蕭然《しょうぜん》として白く咲いているこの花をみた時に、わたしは云い知れない寂しさをおぼえた。[#地付き](大正3・8)
(九)鶏
秋雨《あきさめ》を衝《つ》いて箱根《はこね》の旧道を下《くだ》る。笈《おい》の平《たいら》の茶店に休むと、神崎与五郎《かんざきよごろう》が博労《ばくろう》の丑五郎《うしごろう》に詫《わび》証文をかいた故蹟という立て札がみえる。
五、六日まえに修学旅行の学生の一隊がそこに休んで、一羽の飼い鶏をぬすんで行ったと、店のおかみさんが甘酒を汲みながら口惜《くや》しそうに語った。
「あいつ泥坊だ。」と、三つばかりの男の児が母のあとに付いて、まわらぬ舌で罵《ののし》った。この児に初めて泥坊という詞《ことば》を教えた学生らは、今頃どこの学校で勉強しているであろう。[#地付き](大正10・10)
(十)山蛭
妙義の山をめぐるあいだに、わたしは山蛭《やまびる》に足を吸われた。いくら洗っても血のあとが消えない。ただ洗っても消えるものでない。水を口にふくんで、所謂《いわゆる》ふくみ水にして、それを手拭か紙に湿《しめ》して拭き取るのが一番いいと、案内者が教えてくれた。
蛭に吸われた旅の人は、妙義の女郎のふくみ水で洗って貰ったのですと、かれは昔を偲び顔にまた云った。上州一円は明治二十三年から廃娼を実行されているのである。
雨のように冷たい山霧は妙義の町を掩って、そこが女郎屋の跡だというあたりには、桑の葉が一面に暗くそよいでいた。[#地付き](大正3・8)
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温泉雑記
一
ことしの梅雨も明けて、温泉場繁昌の時節が来た。この頃では人の顔をみれば、この夏はどちらへお出《い》でになりますかと尋《たず》ねたり、尋ねられたりするのが普通の挨拶になったようであるが、私たちの若い時――今から三、四十年前までは決してそんなことは無かった。
勿論《もちろん》、むかしから湯治にゆく人があればこそ、どこの温泉場も繁昌していたのであるが、その繁昌の程度が今と昔とはまったく相違していた。各地の温泉場が近年いちじるしく繁昌するようになったのは、何と云っても交通の便が開けたからである。
江戸時代には箱根の温泉まで行くにしても、第一日は早朝に品川《しながわ》を発《た》って程ヶ谷《ほどがや》か戸塚《とつか》に泊まる、第二日は小田原《おだわら》に泊まる。そうして、第三日にはじめて箱根の湯本《ゆもと》に着く。但しそれは足の達者な人たちの旅で、病人や女や老人の足の弱い連れでは、第一日が神奈川《かながわ》泊まり、第二日が藤沢《ふじさわ》、第三日が小田原、第四日に至って初めて箱根に入り込むというのであるから、往復だけでも七、八日はかかる。それに滞在の日数を加えると、どうしても半月以上に達するのであるから、金と暇とのある人びとでなければ、湯治場《とうじば》めぐりなどは容易に出来るものではなかった。
江戸時代ばかりでなく、明治時代になって東海道線の汽車が開通するようになっても、まず箱根まで行くには国府津《こうづ》で汽車に別れる。それから乗合いのガタ馬車にゆられて、小田原を経て湯本に着く。そこで、湯本泊まりならば格別、さらに山の上へ登ろうとすれば、人力車か山駕籠に乗るのほかはない。小田原電鉄が出来て、その不便がやや救われたが、それとても国府津、湯本間だけの交通にとどまって、湯本以上の登山電車が開通するようになったのは、大正のなかば頃からである。そんなわけであるから、一泊でもかなりに気忙《きぜわ》しい。いわんや日帰りに於いてをやである。
それが今日《こんにち》では、一泊はおろか、日帰りでも悠々と箱根や熱海《あたみ》に遊んで来ることが出来るようになったのであるから、鉄道省その他の宣伝と相俟《あいま》って、そこらへ浴客が続々吸収せらるるのも無理はない。それと同時に、浴客の心持も旅館の設備なども全く昔とは変ってしまった。
いつの世にも、温泉場に来るものは病人と限ったわけでは無い。健康な人間も遊山《ゆさん》がてらに来浴するのではあるが、原則としては温泉は病いを養うところと認められ、大体において病人の浴客が多かった。それであるから、入浴に来る以上、一泊や二泊で帰る客は先ず少ない。短くても一週間、長ければ十五日、二十日、あるいはひと月以上も滞在するのは珍しくない。私たちの若い時には、江戸以来の習慣で、一週間をひと回《まわ》りといい、二週間をふた回りといい、既に温泉場へゆく以上は少なくともひと回りは滞在して来なければ、何のために行ったのだか判らないということになる。ふた回りか三回り入浴して来なければ、温泉の効《き》き目はないものと決められていた。
たとい健康の人間でも、往復の長い時間をかんがえると、一泊や二泊で引揚げて来ては、わざわざ行った甲斐が無いということにもなるから、少なくも四、五日や一週間は滞在するのが普通であった。
二
温泉宿へ一旦踏み込んだ以上、客もすぐには帰らない。宿屋の方でも直ぐには帰らないものと認めているから、双方ともに落着いた心持で、そこにおのずから暢《のび》やかな気分が作られていた。
座敷へ案内されて、まず自分の居どころが決まると、携帯の荷物をかたづけて、型のごとくに入浴する。そこでひと息ついた後、宿の女中にむかって両隣りの客はどんな人々であるかを訊《き》く。病人であるか、女づれであるか、子供がいるかを詮議した上で、両隣りへ一応の挨拶にゆく。
「今日からお隣りへ参りましたから、よろしく願います。」
宿の浴衣を着たままで行く人もあるが、行儀のいい人は衣服をあらためて行く。単に言葉の挨拶ばかりでなく、なにかの土産《みやげ》を持参するのもある。前にも云う通り滞在期間が長いから、大抵の客は甘納豆《あまなっとう
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