に行きあった。活動写真の広告である。山のふところに抱かれた町は早く暮れかかって、桂《かつら》川の水のうえには薄い靄《もや》が這っている。
修善寺がよいの乗合馬車は、いそがしそうに鈴を鳴らして川下の方から駆《か》けて来た。
夜は机にむかって原稿などをかく、今夜は大湯《おおゆ》換えに付き入浴八時かぎりと触れ渡された。
(二)
二十七日。六時に起きて入浴。きょうも晴れつづいたので、浴客はみな元気がよく、桂川の下流へ釣に行こうというのもあって、風呂場はすこぶる賑わっている。ひとりの西洋人が悠然としてはいって来たが、湯の熱いのに少しおどろいた体《てい》であった。
朝飯まえに散歩した。路は変らぬ河岸であるが、岩に堰《せ》かれ、旭日《あさひ》にかがやいて、むせび落つる水のやや浅いところに家鴨《あひる》数十羽が群れ遊んでいて、川に近い家々から湯の烟《けむ》りがほの白くあがっているなど、おのずからなる秋の朝の風情を見せていた。岸のところどころに芒《すすき》が生えている。近づいて見ると「この草取るべからず」という制札を立ててあって、後《のち》の月見《つきみ》の材料にと貯えて置くものと察せられた。宿に帰って朝飯の膳にむかうと、鉢にうず高く盛った松茸に秋の香が高い。東京の新聞二、三種をよんだ後、頼家《よりいえ》の墓へ参詣に行った。
桂橋を渡り、旅館のあいだを過ぎ、的場《まとば》の前などをぬけて、塔の峰の麓に出た。ところどころに石段はあるが、路は極めて平坦で、雑木《ぞうき》が茂っているあいだに高い竹藪がある。槿《むくげ》の花の咲いている竹籬《たけがき》に沿うて左に曲がると、正面に釈迦堂がある。頼家の仏果《ぶっか》円満を願うがために、母|政子《まさこ》の尼が建立《こんりゅう》したものであると云う。鎌倉《かまくら》の覇業を永久に維持する大いなる目的の前には、あるに甲斐《かい》なき我が子を捨て殺しにしたものの、さすがに子は可愛いものであったろうと推し量ると、ふだんは虫の好かない傲慢《ごうまん》の尼将軍その人に対しても、一種同情の感をとどめ得なかった。
さらに左に折れて小高い丘にのぼると、高さ五尺にあまる楕円形の大石に征夷大将軍|源左金吾《げんさきんご》頼家尊霊と刻み、煤《すす》びた堂の軒には笹龍胆《ささりんどう》の紋を打った古い幕が張ってある。堂の広さはわずかに二坪ぐらいで、修善寺町の方を見おろして立っている。あたりには杉や楓《かえで》など枝をかわして生い茂って、どこかで鴉《からす》が啼《な》いている。
すさまじいありさまだとは思ったが、これに較べると、範頼の墓は更に甚だしく荒れまさっている。叔父御よりも甥《おい》の殿の方がまだしもの果報があると思いながら、香を手向《たむ》けて去ろうとすると、入れ違いに来て磬《けい》を打つ参詣者があった。
帰り路で、ある店に立ってゆで栗を買うと実に廉《やす》い。わたしばかりでなく、東京の客はみな驚くだろうと思われた。宿に帰って読書、障子の紙が二ヵ所ばかり裂けている。眼に立つほどの破れではないが、それにささやく風の音がややもすれば耳について、秋は寂しいものだとしみじみ思わせるうちに、宿の男が来て貼りかえてくれた。向う座敷は障子をあけ放して、その縁側に若い女客が長い洗い髪を日に乾かしているのが、榎《えのき》の大樹を隔ててみえた。
午後は読書に倦《う》んで肱枕《ひじまくら》を極《き》めているところへ宿の主人が来た。主人はよく語るので、おかげで退屈を忘れた。
きょうも水の音に暮れてしまったので、電燈の下《もと》で夕飯をすませて、散歩がてら理髪店へゆく。大仁《おおひと》理髪組合の掲示をみると、理髪料十二銭、またそのわきに附記して、「但し角刈とハイカラは二銭増しの事」とある。いわゆるハイカラなるものは、どこへ廻っても余計に金の要ることと察せられた。店先に張子の大きい達磨《ダルマ》を置いて、その片眼を白くしてあるのは、なにか願《がん》掛けでもしたのかと訊《き》いたが、主人も職人も笑って答えなかった。楽隊の声が遠くきこえる。また例の活動写真の広告らしい。
理髪店を出ると、もう八時をすぎていた。露の多い夜気は冷やびやと肌にしみて、水に落ちる家々の灯かげは白くながれている。空には小さい星が降るかと思うばかりに一面にきらめいていた。
宿に帰って入浴、九時を合図に寝床にはいると、廊下で、「按摩《あんま》は如何《いかが》さま」という声がきこえた。
(三)
二十八日。例に依って六時入浴。今朝は湯加減が殊によろしいように思われて身神爽快。天気もまたよい。朝飯もすみ、新聞もよみ終って、ふらりと宿を出た。
月末に近づいたせいか、この頃は帰る人が一日増しに多くなった。大仁《おおひと》行きの馬車は家々の客を運んでゆく。赤とんぼが乱れ飛んで、冷たい秋の風は馬のたてがみを吹き、人の袂を吹いている。宿の女どもは門《かど》に立ち、または途中まで見送って、「御機嫌よろしゅう……来年もどうぞ」などと口々に云っている。歌によむ草枕、かりそめの旅とはいえど半月ひと月と居馴染《いなじ》めば、これもまた一種の別れである。涙もろい女客などは、朝夕親しんだ宿の女どもと云い知れぬ名残《なごり》の惜しまれて、馬車の窓から幾たびか見返りつつ揺られて行くのもあった。
修禅寺に詣でると、二十七日より高祖忌執行の立札があった。宝物一覧を断わられたのも、これが為であるとうなずかれた。
転じて新井別邸の前、寄席のまえを過ぎて、見晴らし山というのに登った。半腹の茶店に休むと、今来た町の家々は眼の下につらなって、修禅寺の甍《いらか》はさすがに一角をぬいて聳《そび》えていた。
この茶店には運動場があって、二十歳《はたち》ばかりの束髪の娘がブランコに乗っていた。もちろん土地の人ではないらしい。山の頂上は俗に見晴らし富士と呼んで、富士を望むのによろしいと聞いたので、細い山路をたどってゆくと、裳《すそ》にまつわる萩や芒《すすき》がおどろに乱れて、露の多いのに堪えられなかった。登るにしたがって勾配がようやく険《けわ》しく、駒下駄ではとかく滑ろうとするのを、剛情にふみこたえて、まずは頂上と思われるあたりまで登りつくと、なるほど富士は西の空にはっきりと見えた。秋天片雲無きの口にここへ来たのは没怪《もっけ》の幸いであった。帰りは下り坂を面白半分に駈け降りると、あぶなく滑って転びそうになること両三度、降りてしまったら汗が流れた。
山を降りると田圃路《たんぼみち》で、田の畔《くろ》には葉鶏頭の真紅《まっか》なのが眼に立った。もとの路を還らずに、人家のつづく方を北にゆくと、桜ヶ岡《さくらがおか》の麓を過ぎて、いつの間にか向う岸へ廻ったとみえて、図《はか》らずも頼家の墓の前に出た。きのう来て、今日もまた偶然に来た。おのずからなる因縁浅からぬように思われて、ふたたび墓に香をささげた。
頼家の墓所は単に塔の峰の麓とのみ記憶していたが、今また聞けば、ここを指月ヶ岡《しげつがおか》と云うそうである。頼家が討たれた後に、母の尼が来たり弔って、空ゆく月を打ち仰ぎつつ「月は変らぬものを、変り果てたるは我が子の上よ。」と月を指さして泣いたので、人々も同じ涙にくれ、爾来ここを呼んで指月ヶ岡と云うことになったとか。蕭条《しょうじょう》たる寒村の秋のゆうべ、不幸なる我が子の墓前に立って、一代の女将軍が月下に泣いた姿を想いやると、これもまた画くべく歌うべき悲劇であるように思われた。かれが斯くまでに涙を呑んで経営した覇業も、源氏より北条《ほうじょう》に移って、北条もまた亡びた。これにくらべると、秀頼《ひでより》と相抱いて城と倶《とも》にほろびた淀君《よどぎみ》の方が、人の母としては却って幸いであったかもしれない。
帰り路に虎渓橋《こけいきょう》の上でカーキ色の軍服を着た廃兵に逢った。その袖には赤十字の徽章をつけていた。宿に帰って主人から借りた修善寺案内記を読み、午後には東京へ送る書信二通をかいた。二時ごろ退屈して入浴。わたしの宿には当時七、八十人の滞在客がある筈であるが、日中のせいか広い風呂場には一人もみえなかった。菖蒲の湯を買い切りにした料簡《りょうけん》になって、全身を湯にひたしながら、天然の岩を枕にして大の字に寝ころんでいると、いい心持を通り越して、すこし茫となった気味である。気つけに温泉二、三杯を飲んだ。
主人はきょうも来て、いろいろの面白い話をしてくれた。主人の去った後は読書。絶え間なしに流れてゆく水の音に夜昼の別《わか》ちはないが、昼はやがて夜となった。
食後散歩に出ると、行くともなしに、またもや頼家の方へ足が向く。なんだか執《と》り着かれたような気もするのであった。墓の下の三洲園という蒲焼屋では三味線の音《ね》が騒がしくきこえる。頼家尊霊も今夜は定めて陽気に過させ給うであろうと思いやると、われわれが問い慰めるまでもないと理窟をつけて、墓へはまいらずに帰ることにした。あやなき闇のなかに湯の匂いのする町家へたどってゆくと、夜はようやく寒くなって、そこらの垣に機織虫《はたおりむし》が鳴いていた。
わたしの宿のうしろに寄席があって、これも同じ主人の所有である。草履ばきの浴客が二、三人はいってゆく。私も続いてはいろうかと思ったが、ビラをみると、一流うかれ節三河屋何某一座、これには少しく恐れをなして躊躇していると、雨がはらはらと降って来た。仰げば塔の峰の頂上から、蝦蟆《がま》のような黒雲が這い出している。いよいよ恐れて早々に宿に逃げ帰った。
帰って机にむかえば、下の離れ座敷でもまたもや義太夫が始まった。近所の宿でも三味線の音がきこえる。今夜はひどく賑やかな晩である。
十時入浴して座敷に帰ると、桂川も溢《あふ》れるかと思うような大雨となった。[#地付き](掲載誌不詳、『十番随筆』所収)
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春の修善寺
十年ぶりで三島《みしま》駅から大仁《おおひと》行きの汽車に乗り換えたのは、午後四時をすこし過ぎた頃であった。大場《だいば》駅附近を過ぎると、此処《ここ》らももう院線の工事に着手しているらしく、路ばたの空地《あきち》に投げ出された鉄材や木材が凍ったような色をして、春のゆう日にうす白く染められている。村里のところどころに寒そうに顫《ふる》えている小さい竹藪は、折りからの強い西風にふき煽《あお》られて、今にも折れるかとばかりに撓《たわ》みながら鳴っている。広い桑畑には時どき小さい旋風をまき起して、黄龍のような砂の渦が汽車を目がけてまっしぐらに襲って来る。
このいかにも暗い、寒い、すさまじい景色を窓から眺めながら運ばれてゆく私は、とても南の国へむかって旅をしているという、のびやかな気分にはなれなかった。汽車のなかに沼津《ぬまづ》の人が乗りあわせていて、三、四年まえの正月に愛鷹丸《あしたかまる》が駿河《するが》湾で沈没した当時の話を聞かせてくれた。その中にこんな悲しい挿話があった。
沼津の在に強盗傷人の悪者があって、その後久しく伊豆の下田《しもだ》に潜伏していたが、ある時なにかの動機から翻然悔悟《ほんぜんかいご》した。その動機はよく判らないが、理髪店へ行って何かの話を聞かされたのらしいと云う。かれはすぐに下田の警察へ駆け込んで過去の罪を自首したが、それはもう時効《じこう》を経過しているので、警察では彼を罪人として取扱うことが出来なかった。かれは失望して沼津へ帰った。それからだんだん聞き合せると、当時の被害者はとうに世を去ってしまって、その遺族のゆくえも判らないので、彼はいよいよ失望した。
元来、彼は沼津の生まれではなかった――その出生地をわたしは聞き洩らした――せめては故郷の菩提寺に被害者の石碑を建立《こんりゅう》して、自分の安心《あんじん》を得たいと思い立って、その後一年ほどは一生懸命に働いた。そうして、幾らかの金を作った。彼はその金をふところにしてかの愛鷹丸に乗り込むと、駿河の海は怒って暴《あ》れて、かれを乗せた愛鷹丸はヨナ(旧約聖書の中の
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