予言者)を乗せた船のように、ゆれて傾いた。しかも、罪ある人ばかりでなく、乗組みの大勢をも併せて海のなかへ投げ落してしまった。彼は悪魚の腹にも葬られずに、数時間の後に引揚げられたが、彼はその金を懐ろにしたままで凍え死んでいた。
これを話した人は、彼の死はその罪業《ざいごう》の天罰であるかのように解釈しているらしい口ぶりであった。天はそれほどに酷《むご》いものであろうか――わたしは暗い心持でこの話を聴いていた。
南条《なんじょう》駅を過ぎる頃から、畑にも山にも寒そうな日の影すらも消えてしまって、ところどころにかの砂烟《すなけむ》りが巻きあがっている。その黄いろい渦が今は仄白《ほのじろ》くみえるので、あたりがだんだんに薄暗くなって来たことが知られた。汽車の天井には旧式な灯の影がおぼつかなげに揺れている。この話が済むと、その人は外套《がいとう》の袖をかきあわせて、肩をすくめて黙ってしまった。私も黙っていた。
三島から大仁までたった小一時間、それが私に取っては堪えられないほどに長い暗い佗《わび》しい旅であった。ゆき着いた大仁の町も暗かった。寒い風はまだ吹きやまないで、旅館の出迎えの男どもが振り照らす提灯の灯《ひ》のかげに、乗合馬車の馬のたてがみの顫《ふる》えて乱れているのが見えた。わたしは風を恐れて自動車に乗った。
修善寺の宿につくと、あくる日はすぐに指月ヶ岡にのぼって、頼家の墓に参詣した。わたしの戯曲「修禅寺物語」は、十年前の秋、この古い墓のまえに額《ぬか》づいた時に私の頭に湧き出した産物である。この墓と会津《あいづ》の白虎隊の墓とは、わたしに取って思い出が多い。その後、私はどう変ったか自分にはよく判らないが、頼家公の墓はよほど変っていた。
その当時の日記によると、丘の裾には鰻屋《うなぎや》が一軒あったばかりで、丘の周囲にはほとんど人家がみえなかった。墓は小さい堂のなかに祀《まつ》られて、堂の軒には笹龍胆《ささりんどう》の紋を染めた紫の古びた幕が張り渡されていて、その紫の褪《さ》めかかった色がいかにも品のよい、しかも寂しい、さながら源氏の若い将軍の運命を象徴するかのように見えたのが、今もありありと私の眼に残っている。ところが、今度かさねて来てみると、堂はいつの間にか取払われてしまって、懐かしい紫の色はもう尋《たず》ねるよすがもなかった。なんの掩《おお》いをも持たない古い墓は、新しい大きい石の柱に囲まれていた。いろいろの新しい建物が丘の中腹までひしひしと押しつめて来て、そのなかには遊芸稽古所などという看板も見えた。
頼家公の墳墓の領域がだんだんに狭《せば》まってゆくのは、町がだんだんに繁昌してゆくしるしである。むらさきの古い色を懐かしがる私は、町の運命になんの交渉ももたない、一個の旅人《たびびと》に過ぎない。十年前にくらべると、町はいちじるしく賑やかになった。多くの旅館は新築をしたのもある。建て増しをしたのもある。温泉|倶楽部《クラブ》も出来た、劇場も出来た。こうして年毎に発展してゆく此の町のまん中にさまよって、むかしの紫を偲《しの》んでいる一個の貧しい旅びとであることを、町の人たちは決して眼にも留めないであろう。わたしは冷たい墓と向い合ってしばらく黙って立っていた。
それでも墓のまえには三束の線香が供えられて、その消えかかった灰が霜柱のあつい土の上に薄白くこぼれていた。日あたりが悪いので、黒い落葉がそこらに凍り着いていた。墓を拝して帰ろうとして不図《ふと》見かえると、入口の太い柱のそばに一つの箱が立っていた。箱の正面には「将軍源頼家おみくじ」と書いてあった。その傍の小さい穴の口には「一銭銅貨を入れると出ます」と書き添えてあった。
源氏の将軍が預言者であったか、売卜《うらない》者であったか、わたしは知らない。しかし此の町の人たちは、果たして頼家公に霊あるものとして斯《こ》ういうものを設けたのであろうか、あるいは湯治客の一種の慰みとして設けたのであろうか。わたしは試みに一銭銅貨を入れてみると、カラカラという音がして、下の口から小さく封じた活版刷のお神籤《みくじ》が出た。あけて見ると、第五番凶とあった。わたしはそれが当然だと思った。将軍にもし霊あらば、どのお神籤にもみんな凶が出るに相違ないと思った。
修禅寺はいつ詣《まい》っても感じのよいお寺である。寺といえばとかくに薄暗い湿っぽい感じがするものであるが、このお寺ばかりは高いところに在って、東南の日を一面にうけて、いかにも明るい爽《さわや》かな感じをあたえるのが却って雄大荘厳の趣を示している。衆生《しゅじょう》をじめじめした暗い穴へ引き摺ってゆくので無くて、赫灼《かくやく》たる光明を高く仰がしめると云うような趣がいかにも尊げにみえる。
きょうも明るい日が大きい甍《いらか》を一面に照らして、堂の家根《やね》に立っている幾匹の唐獅子《からじし》の眼を光らせている。脚絆を穿いたお婆さんが正面の階段の下に腰をかけて、藍《あい》のように晴れ渡った空を仰いでいる。玩具《おもちゃ》の刀をさげた小児《こども》がお百度石に倚りかかっている。大きい桜の木の肌がつやつやと光っている。丘の下には桂川の水の音がきこえる。わたしは桜の咲く四月の頃にここへ来たいと思った。
避寒の客が相当にあるとは云っても、正月ももう末に近いこの頃は修善寺の町も静かで、宿の二階に坐っていると、聞えるものは桂川の水の音と修禅寺の鐘の声ばかりである。修禅寺の鐘は一日に四、五回撞く。時刻をしらせるのではない、寺の勤行《ごんぎょう》の知らせらしい。ほかの時はわたしもいちいち記憶していないが、夕方の五時だけは確かにおぼえている。それは修禅寺で五時の鐘をつき出すのを合図のように、町の電燈が一度に明るくなるからである。
春の日もこの頃はまだ短い。四時をすこし過ぎると、山につつまれた町の上にはもう夕闇がおりて来て、桂川の水にも鼠色の靄《もや》がながれて薄暗くなる。河原に遊んでいる家鴨《あひる》の群れの白い羽もおぼろになる。川沿いの旅館の二階の欄干にほしてある紅い夜具がだんだんに取り込まれる。この時に、修禅寺の鐘の声が水にひびいて高くきこえると、旅館にも郵便局にも銀行にも商店にも、一度に電燈の花が明るく咲いて、町は俄かに夜のけしきを作って来る。旅館はひとしきり忙《せわ》しくなる。大仁から客を運び込んでくる自動車や馬車や人力車の音がつづいて聞える。それが済むとまたひっそりと鎮まって、夜の町は水の音に占領されてしまう。二階の障子をあけて見渡すと、近い山々はみな一面の黒いかげになって、町の上には家々の湯けむりが白く迷っているばかりである。
修禅寺では夜の九時頃にも鐘を撞く。
それに注意するのはおそらく一山の僧たちだけで、町の人々の上にはなんの交渉もないらしい。しかし湯治客のうちにも、町の人のうちにも、いろいろの思いをかかえてこの鐘の声を聴いているのもあろう。現にわたしが今泊まっている此の部屋だけでも、新築以来、何百人あるいは何千人の客が泊まって、わたしが今坐っているこの火鉢のまえで、いろいろの人がいろいろの思いでこの鐘を聴いたであろう。わたしが今無心に掻きまわしている古い灰の上にも、遣瀬《やるせ》ない女の悲しい涙のあとが残っているかも知れない。温泉場に来ているからと云って、みんなのんきな保養客ばかりではない。この古い火鉢の灰にもいろいろの苦しい悲しい人間の魂が籠《こも》っているのかと思うと、わたしはその灰をじっと見つめているのに堪えられないように思うこともある。
修禅寺の夜の鐘は春の寒さを呼び出すばかりでなく、火鉢の灰の底から何物をか呼び出すかも知れない。宵っ張りの私もここへ来てからは、九時の鐘を聴かないうちに寝ることにした。[#地付き](大正7・3「読売新聞」)
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妙義の山霧
(上)
妙義町《みょうぎまち》の菱屋《ひしや》の門口《かどぐち》で草鞋《わらじ》を穿いていると、宿の女が菅笠《すげがさ》をかぶった四十五、六の案内者を呼んで来てくれました。ゆうべの雷《かみなり》は幸いにやみましたが、きょうも雨を運びそうな薄黒い雲が低くまよって、山も麓も一面の霧に包まれています。案内者とわたしは笠をならべて、霧のなかを爪さき上がりに登って行きました。
私は初めてこの山に登る者です。案内者は当然の順序として、まずわたしを白雲山《はくうんざん》の妙義神社に導きました。社殿は高い石段の上にそびえていて、小さい日光《にっこう》とも云うべき建物です。こういう場所には必ずあるべきはずの杉の大樹が、天と地とを繋ぎ合せるように高く高く生い茂って、社前にぬかずく参拝者の頭《こうべ》の上をこんもりと暗くしています。私たちはその暗い木の下蔭をたどって、山の頂きへと急ぎました。
杉の林は尽きて、さらに雑木《ぞうき》の林となりました。路のはたには秋の花が咲き乱れて、芒《すすき》の青い葉は旅人《たびびと》の袖にからんで引き止めようとします。どこやらでは鶯《うぐいす》が鳴いています。相も変らぬ爪さき上がりに少しく倦《う》んで来たわたしは、小さい岩に腰を下ろして巻煙草をすいはじめました。霧が深いのでマッチがすぐに消えます。案内者も立ち停まって同じく煙管《きせる》を取り出しました。
案内者は正直そうな男で、煙草のけむりを吹く合い間にいろいろの話をして聞かせました。妙義登山者は年々|殖《ふ》える方であるが暑中は比較的にすくない、一年じゅうで最も登山者の多いのは十月の紅葉の時節で、一日に二百人以上も登ることがある。しかし昔にくらべると、妙義の町はたいそう衰えたそうで、二十年前までは二百戸以上をかぞえた人家が今では僅かに三十二戸に減ってしまったと云います。
「なにしろ貸座敷が無くなったので、すっかり寂《さび》れてしまいましたよ。」
「そうかねえ。」
わたしは巻煙草の吸殻《すいがら》を捨てて起つと、案内者もつづいて歩き出しました。山霧は深い谷の底から音も無しに動いて来ました。
案内者は振り返りながらまた話しました。上州《じょうしゅう》一円に廃娼を実行したのは明治二十三年の春で、その当時妙義の町には八戸の妓楼《ぎろう》と四十七人の娼妓があった。妓楼の多くは取り毀されて桑畑となってしまった。磯部《いそべ》や松井田《まついだ》からかよって来る若い人々のそそり唄も聞えなくなった。秋になると桑畑には一面に虫が鳴く。こうして妙義の町は年毎に衰えてゆく。
谷川の音が俄かに高くなったので、話し声はここで一旦消されてしまいました。頂上の方からむせび落ちて来る水が岩や樹の根に堰《せ》かれて、狭い山路を横ぎって乱れて飛ぶので、草鞋《わらじ》を湿《ぬ》らさずに過ぎる訳には行きませんでした。案内者は小さい石の上をひょいひょいと飛び越えて行きます。わたしもおぼつかない足取りで其の後を追いましたが、草鞋はぬれていい加減に重くなりました。
水の音をうしろに聞きながら、案内者はまた話し出しました。維新前の妙義町は更に繁昌したものだそうで、普通の中仙道は松井田から坂本《さかもと》、軽井沢《かるいざわ》、沓掛《くつかけ》の宿々《しゅくじゅく》を経て追分《おいわけ》にかかるのが順路ですが、そのあいだには横川《よこかわ》の番所があり、碓氷《うすい》の関所があるので、旅人の或る者はそれらの面倒を避けて妙義の町から山伝いに信州の追分へ出る。つまり此の町が関の裏路になっていたのです。山ふところの夕暮れに歩み疲れた若い旅人が青黒い杉の木立《こだち》のあいだから、妓楼の赤い格子を仰ぎ視た時には、沙漠でオアシスを見いだしたように、かれらは忙《いそ》がわしくその軒下に駈け込んで、色の白い山の女に草鞋の紐《ひも》を解かせたでしょう。
「その頃は町もたいそう賑やかだったと、年寄りが云いますよ。」
「つまり筑波《つくば》の町のような工合だね。」
「まあ、そうでしょうよ。」
霧はいよいよ深くなって、路をさえぎる立木の梢《こずえ》から冷たい雫《しずく》がばらばらと笠の上に降って
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