何の注意をも払わなかった。
船が松の青い島々をめぐって行くうちに、同船の森《もり》知事が起《た》って、かの老人たちを紹介した。今日《こんにち》この孔雀丸を浮かべるに就いて、旧藩時代の御座船の船頭を探し求めたが、その多数は既に死に絶えて、僅かに生き残っているのは此の数人に過ぎない。どうか此の人々の口から政宗公以来伝わって来た舟唄の一節《ひとふし》を聴いて貰いたいとのことであった。
素朴の老人たちは袴の膝に手を置いて、粛然と坐っていた。私はこれまでにも多くの人に接した、今後もまた多くの人に接するであろうが、かくの如き敬虔《けいけん》の態度を取る人々はしばしば見られるものではあるまいと思った。わたしも覚えず襟を正しゆうして向き直った。この人々の顔は赭《あか》かった、頭の髪は白かった。いずれも白扇を取り直して、やや伏目になって一斉に歌い始めた。唄は「鎧口説《よろいくど》き」と云うので、藩祖政宗が最も愛賞したものだとか伝えられている。
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※[#歌記号、1−3−28]やら目出たやな。初春の好き日をとしの着長《きせなが》は、えい、小桜をどしとなりにける。えい、さて又夏は卯の花の、えい、垣根の水にあらひ革。秋になりての其色は、いつも軍《いくさ》に勝色《かついろ》の、えい、紅葉にまがふ錦革。冬は雪げの空晴れて、えい、冑《かぶと》の星の菊の座も、えい、華やかにこそ威毛《おどしげ》の、思ふ仇《かたき》を打ち取りて、えい、わが名を高くあげまくも、えい、剣《つるぎ》は箱に納め置く、弓矢ふくろを出さずして、えい、富貴の国とぞなりにける。やんら……。
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わたしらはこの歌の全部を聴き取るほどの耳をもたなかった。勿論、その巧拙などの判ろう筈はない。塩竈神社の神楽を観た時と同じような感じを以って、ただ一種の古雅なるものとして耳を傾けたに過ぎなかった。しかしその唄の節よりも、文句よりも、いちじるしく私の心を動かしたのは、歌う人々の態度であったことを繰り返して云いたい。
政宗以来、孔雀丸は松島の海に浮かべられた。この老人たちも封建時代の最後の藩侯に仕えて、御座船の御用を勤めたに相違ない。孔雀丸のまんなかには藩侯が乗っていた。その左右には美しい小姓どもが控えていた。末座には大勢の家来どもが居列んでいた。船には竹に雀の紋をつけた幔幕《まんまく》が張り廻されていた。海の波は畳のように平らかであった。この老人たちは艫《ろ》をあやつりながら、声を揃えてかの舟唄を歌った。
それから幾十年の後に、この人々はふたたび孔雀丸に乗った。老いたるかれらはみずから艫擢《ろかい》を把《と》らなかったが、旧主君の前にあると同一の態度を以って謹んで歌った。かれらの眼の前には裃《かみしも》も見えなかった、大小も見えなかった。異人のかぶった山高帽子や、フロックコートがたくさんに列んでいた。この老人たちは恐らくこの奇異なる対照と変化とを意識しないであろう、また意識する必要も認めまい。かれらは幾十年前の旧《ふる》い美しい夢を頭に描きながら、幾十年前の旧い唄を歌っているのである。かれらの老いたる眼に映るものは、裃である、大小である、竹に雀の御紋である。山高帽やフロックコートなどは眼にはいろう筈がない。
私はこの老人たちに対して、一種尊敬の念の湧くを禁じ得なかった。勿論その尊敬は、悲壮と云うような観念から惹き起される一種の尊敬心で、例えば頽廃《たいはい》した古廟に白髪の伶人《れいじん》が端坐して簫《ふえ》の秘曲を奏している、それとこれと同じような感があった。わたしは巻煙草をくわえながら此の唄を聴くに忍びなかった。
この唄は、この老人たちの生命《いのち》と共に、次第に亡びて行くのであろう。松島の海の上でこの唄の声を聴くのは、あるいはこれが終りの日であるかも知れない。わたしはそぞろに悲しくなった。
しかし仙台の国歌とも云うべき「さんさ時雨」が、芸妓の生鈍《なまぬる》い肉声に歌われて、いわゆる緑酒《りょくしゅ》紅燈の濁った空気の中に、何の威厳もなく、何の情趣も無しに迷っているのに較べると、この唄はむしろこの人々と共に亡びてしまう方が優《まし》かも知れない。この人々のうちの最年長者は、七十五歳であると聞いた。
金華山の一夜
金華山《きんかざん》は登り二十余町、さのみ嶮峻《けんしゅん》な山ではない、むしろ美しい青い山である。しかも茫々たる大海のうちに屹立《きつりつ》しているので、その眼界はすこぶる闊《ひろ》い、眺望雄大と云ってよい。わたしが九月二十四日の午後この山に登った時には、麓《ふもと》の霧は山腹の細雨《こさめ》となって、頂上へ来ると西の空に大きな虹が横たわっていた。
海中の孤島、黄金山神社のほかには、人家も無い。参詣の者はみな社務所に宿を借るのである。わたしも泊まった。夜が更けると、雨が瀧のように降って来た。山を震わすように雷《らい》が鳴った。稲妻が飛んだ。
「この天気では、あしたの船が出るか知ら。」と、わたしは寝ながら考えた。
これを案じているのは私ばかりではあるまい。今夜この社務所には百五十余人の参詣者が泊まっているという。この人々も同じ思いでこの雨を聴いているのであろうと思った。しかも今日では種々の準備が整っている。海が幾日も暴《あ》れて、山中の食料がつきた場合には、対岸の牡鹿《おじか》半島にむかって合図の鐘を撞《つ》くと、半島の南端、鮎川《あゆかわ》村の忠実なる漁民は、いかなる暴風雨の日でも約二十八丁の山雉《やまどり》の渡しを乗っ切って、必ず救助の船を寄せることになっている。
こう決まっているから、たとい幾日この島に閉じ籠められても、別に心配することも無い。わたしは平気で寝ていられるのだ。が、昔はどうであったろう。この社《やしろ》の創建は遠い上代《じょうだい》のことで、その年時も明らかでないと云う。尤《もっと》もその頃は牡鹿半島と陸続きであったろうと思われるが、とにかく斯《こ》ういう場所を撰んで、神を勧請《かんじょう》したという昔の人の聡明に驚かざるを得ない。ここには限らず、古来著名の神社仏閣が多くは風光|明媚《めいび》の地、もしくは山谷嶮峻の地を相《そう》して建てられていると云う意味を、今更のようにつくづく感じた。これと同時に、古来人間の信仰の力というものを怖ろしいほどに思い知った。海陸ともに交通不便の昔から年々幾千万の人間は木《こ》の葉のような小さい舟に生命を托して、この絶島《はなれじま》に信仰の歩みを運んで来たのである。ある場合には十日も二十日も風浪に阻《はば》められて、ほとんど流人《るにん》同様の艱難《かんなん》を嘗《な》めたこともあったろう。ある場合には破船して、千尋《ちひろ》の浪の底に葬られたこともあったろう。昔の人はちっともそんなことを怖れなかった。
今の信仰の薄い人――少なくとも今のわたしは、ほとんど保険付きともいうべき大きな汽船に乗って来て、しかも食料欠乏の憂いは決して無いという確信を持っていながら、一夜の雷雨にたちまち不安の念をきざすのである。こんなことで、どうして世の中に生きていられるだろう。考えると、何だか悲しくなって来た。
雷雨は漸《ようや》くやんだ。山の方では鹿の声が遠くきこえた。あわれな無信仰者は初めて平和の眠りに就いた。枕もとの時計はもう一時を過ぎていた。[#地付き](大正2・10「やまと新聞」)
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秋の修善寺
(一)
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(明治四十一年)九月の末におくればせの暑中休暇を得て、伊豆《いず》の修善寺《しゅうぜんじ》温泉に浴し、養気館の新井《あらい》方にとどまる。所作為《しょざい》のないままに、毎日こんなことを書く。
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二十六日。きのうは雨にふり暮らされて、宵から早く寝床にはいったせいか、今朝は五時というのにもう眼が醒めた。よんどころなく煙草をくゆらしながら、襖《ふすま》にかいた墨絵の雁《かり》と相対すること約半時間。おちこちに鶏《とり》が勇ましく啼《な》いて、庭の流れに家鴨《あひる》も啼いている。水の音はひびくが雨の音はきこえない。
六時、入浴。その途中に裏二階から見おろすと、台所口とも思われる流れの末に長さ三|尺《じゃく》ほどの蓮根《れんこん》をひたしてあるのが眼についた。湯は菖蒲の湯で、伝説にいう、源三位頼政《げんざんみよりまさ》の室|菖蒲《あやめ》の前《まえ》は豆州長岡《ずしゅうながおか》に生まれたので、頼政滅亡の後、かれは故郷に帰って河内《かわうち》村の禅長寺に身をよせていた。そのあいだに折りおりここへ来て入浴したので、遂にその湯もあやめの名を呼ばれる事になったのであると。もし果たしてそうであるならば、猪早太《いのはやた》ほどにもない雑兵葉武者《ぞうひょうはむしゃ》のわれわれ風情が、遠慮なしに頭からざぶざぶ浴びるなどは、遠つ昔の上臈《じょうろう》の手前、いささか恐れ多き次第だとも思った。おいおいに朝湯の客がはいって来て、「好《よ》い天気になって結構です。」と口々に云う。なにさま外は晴れて水は澄んでいる。硝子戸《ガラスど》越しに水中の魚の遊ぶのがあざやかにみえた。
朝飯をすました後、例の範頼《のりより》の墓に参詣した。墓は宿から西北へ五、六丁、小山というところにある。稲田や芋《いも》畑のあいだを縫いながら、雨後のぬかるみを右へ幾曲がりして登ってゆくと、その間には紅い彼岸花《ひがんばな》がおびただしく咲いていた。墓は思うにもまして哀れなものであった。片手でも押し倒せそうな小さい仮家で、柊《ひいらぎ》や柘植《つげ》などの下枝に掩《おお》われながら、南向きに寂しく立っていた。秋の虫は墓にのぼって頻《しき》りに鳴いていた。
この時、この場合、何人《なんぴと》も恍《こう》として鎌倉時代の人となるであろう。これを雨月物語《うげつものがたり》式につづれば、範頼の亡霊がここへ現われて、「汝《なんじ》、見よ。源氏《げんじ》の運も久しからじ。」などと、恐ろしい呪《のろ》いの声を放つところであろう。思いなしか、晴れた朝がまた陰って来た。
拝し終って墓畔の茶屋に休むと、おかみさんは大いに修善寺の繁昌を説き誇った。あながちに笑うべきでない。人情として土地自慢は無理もないことである。とこうするあいだに空はふたたび晴れた。きのうまではフランネルに袷《あわせ》羽織を着るほどであったが、晴れると俄《にわ》かにまた暑くなる。芭蕉《ばしょう》翁は「木曾《きそ》殿と背中あはせの寒さ哉《かな》」と云ったそうだが、わたしは蒲《かば》殿と背中あわせの暑さにおどろいて、羽織をぬぎに宿に帰ると、あたかも午前十時。
午後、東京へ送る書信二、三通をしたためて、また入浴。欄干《らんかん》に倚《よ》って見あげると、東南につらなる塔《とう》の峰《みね》や観音山などが、きょうは俄かに押し寄せたように近く迫って、秋の青空がいっそう高く仰がれた。庭の柿の実はやや黄ばんで来た。真向うの下座敷では義太夫の三味線がきこえた。
宿の主人が来て語る。主人は頗る劇通であった。午後三時ふたたび出て修禅寺《しゅぜんじ》に参詣した。名刺を通じて古宝物《こほうもつ》の一覧を請うと、宝物は火災をおそれて倉庫に秘めてあるから容易に取出すことは出来ない。しかも、ここ両三日は法要で取込んでいるから、どうぞその後にお越し下されたいと慇懃《いんぎん》に断わられた。
去って日枝《ひえ》神社に詣でると、境内に老杉多く、あわれ幾百年を経たかと見えるのもあった。石段の下に修善寺駐在所がある。範頼が火を放って自害した真光院というのは、今の駐在所のあたりにあったと云い伝えられている。して見ると、この老いたる杉のうちには、ほろびてゆく源氏の運命を眼のあたりに見たのもあろう。いわゆる故国は喬木あるの謂《いい》にあらずと、唐土の賢人は云ったそうだが、やはり故国の喬木はなつかしい。
挽物《ひきもの》細工の玩具などを買って帰ろうとすると、町の中ほどで赤い旗をたてた楽隊
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