の付近に比丘尼《びくに》坂というのがある。坂の中途に比丘尼塚の碑がある。無名の塚にも何らかの因縁を付けようとするのが世の習いで、この一片の碑にも何かの由来が無くてはならない。
伝えて云う。天慶《てんぎょう》の昔、平将門《たいらのまさかど》が亡びた時に、彼は十六歳の美しい娘を後に残して、田原藤太《たわらとうた》の矢先にかかった。娘は陸奥《みちのく》に落ちて来て、尼となった。ここに草の庵《いおり》を結んで、謀叛《むほん》人と呼ばれた父の菩提《ぼだい》を弔《とむら》いながら、往き来の旅人《たびびと》に甘酒を施していた。比丘尼塚の主《ぬし》はこの尼であると。
わたしは今ここで、将門に娘があったか無かったかを問いたくない。将門の遺族が相馬《そうま》へはなぜ隠れないで、わざわざこんな処へ落ちて来たかを論じたくない。わたしは唯、平親王《へいしんのう》将門の忘れ形見という系図を持った若い美しい一人の尼僧が、陸奥《むつ》の秋風に法衣《ころも》の袖を吹かせながら、この坂の中程に立っていたと云うことを想像したい。
鎌倉《かまくら》の東慶《とうけい》寺には、豊臣秀頼《とよとみひでより》の忘れ形見という天秀尼《てんしゅうに》の墓がある。かれとこれとは同じような運命を荷《にな》って生まれたとも見られる。芝居や浄瑠璃で伝えられる将門の娘|瀧夜叉姫《たきやしゃひめ》よりも、この尼の生涯の方が詩趣もある、哀れも深い。
尼は清い童貞の一生を送ったと伝えられる。が、わたしはそれを讃美するほどに残酷でありたくない。塩竈の町は遠い昔から色の港で、出船入り船を迎うる女郎山の古い名が今も残っている。春もたけなわなる朧《おぼろ》月夜に、塩竈通いのそそり節が生暖い風に送られて近くきこえた時、若い尼は無念無想で経を読んでいられたであろうか。秋の露の寒い夕暮れに、陸奥へくだる都の優しい商人《あきうど》が、ここの軒にたたずんで草鞋《わらじ》の緒を結び直した時、若い尼は甘い酒のほかに何物をも与えたくはなかったであろうか。かれは由《よし》なき仏門に入ったことを悔まなかったであろうか。しかも世を阻《せば》められた謀叛《むほん》人の娘は、これよりほかに行くべき道は無かったのである。かれは一門滅亡の恨みよりも、若い女として此の恨みに堪えなかったのではあるまいか。
かれは甘い酒を人に施したが、人からは甘い情けを受けずに終った。死んだ後には「清い尼」として立派な碑を建てられた。かれは実に清い女であった。しかし将門の娘は不幸なる「清い尼」では無かったろうか。
「塩竈街道に白菊植えて」と、若い男が唄って通った。尼も塩竈街道に植えられて、さびしく咲いて、寂しく萎《しぼ》んだ白菊であった。
これは比較的に有名な話で、今さら紹介するまでも無いかも知れないが、将門の娘と同じような運命の女だと云うことが、わたしの心を惹いた。
松島の観音堂のほとりに「軒場《のきば》の梅」という古木がある。紅蓮尼《こうれんに》という若い女は、この梅の樹のもとに一生を送ったのである。紅蓮尼は西行《さいぎょう》法師が「桜は浪に埋もれて」と歌に詠んだ出羽国象潟《でわのくにきさがた》の町に生まれた、商人《あきうど》の娘であった。父という人は三十三ヵ所の観音|詣《もう》でを思い立って、一人で遠い旅へ迷い出ると、陸奥《むつ》松島の掃部《かもん》という男と道中で路連れになった。掃部も観音詣での一人旅であった。二人は仲睦まじく諸国を巡礼し、つつがなく故郷へ帰ることになって、白河の関で袂《たもと》を分かった。関には昔ながらの秋風が吹いていたであろう。
その時に、象潟の商人は尽きぬ名残《なごり》を惜しむままに、こういう事を約束した。私には一人の娘がある、お前にも一人の息子があるそうだ。どうか此の二人を結び合わせて、末長く睦《むつ》み暮らそうではないか。
掃部も喜んで承諾した。松島の家へ帰り着いてみると、息子の小太郎《こたろう》は我が不在《るす》の間に病んで死んだのであった。夢かとばかり驚き歎いていると、象潟からは約束の通りに美しい娘を送って来たので、掃部はいよいよ驚いた。わが子の果敢《はか》なくなったことを語って、娘を象潟へ送り還そうとしたが、娘はどうしても肯《き》かなかった。たとい夫たるべき人に一度も対面したことも無く、又その人が已《すで》に此の世にあらずとも、いったん親と親とが約束したからには、わたしは此の家の嫁である、決して再び故郷へは戻らぬと、涙ながらに云い張った。
哀れとも無残とも云いようがない。私はこんな話を聞くと、身震いするほどに怖ろしく感じられてならない。わたしは決してこの娘を非難《ひなん》しようとは思わない。むしろ世間の人並に健気《けなげ》な娘だと褒めてやりたい。しかもこの可憐の娘を駆っていわゆる「健気な娘」たらしめた其の時代の教えというものが怖ろしい。
子をうしなった掃部夫婦もやはり其の時代の人であった。つまりは其の願いに任せて、夫の無い嫁を我が家にとどめておいたが、これに婿を迎えるという考えもなかったらしい。こうして夫婦は死んだ。娘は尼になった。
観音堂のほとりには、小太郎が幼い頃に手ずから植えたという一本の梅がある。紅蓮尼はここに庵《いおり》を結んだ。
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さけかしな今はあるじと眺むべし
軒端の梅のあらむかぎりは
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嘘か本当か知らぬが、尼の詠み歌として世に伝えられている。尼はまた、折りおりの手すさびに煎餅を作り出したので、のちの人が尼の名を負わせて、これを「紅蓮」と呼んだと云う。
比丘尼坂でも甘酒を売っている。松島でも紅蓮を売っている。甘酒を飲んで煎餅をかじって、不運な女二人を弔うと云うのも、下戸《げこ》のわたしに取ってはまことにふさわしいことであった。
最後には「先代萩」で名高い政岡《まさおか》を挙げる。私はいわゆる伊達騒動というものに就いて多くの知識を持っていない。仙台で出版された案内記や絵葉書によると、院本《まるほん》で名高い局《つぼね》政岡とは三沢初子《みさわはつこ》のことだそうで、その墓は榴《つつじ》ヶ岡下の孝勝寺にある。墓は鉄柵をめぐらして頗る荘重に見える。
初子は四十八歳で死んだ。かれは伊達|綱宗《つなむね》の側室《そばめ》で、その子の亀千代《かめちよ》(綱村《つなむら》)が二歳で封《ほう》をつぐや、例のお家騒動が出来《しゅったい》したのである。私はその裏面の消息を詳しく知らないが、とにかく反対派が種々の陰謀をめぐらした間に、初子は伊達|安芸《あき》らと心をあわせて、陰に陽に我が子の亀千代を保護した。その事蹟が誤まって、かの政岡の忠節として世に伝えられたのだと、仙台人は語っている。あるいは云う、政岡は浅岡《あさおか》で、初子とは別人であると。あるいは云う、当面の女主人公は初子で、老女浅岡が陰に助力したのであると。
こんな疑問は大槻博士にでも訊いたら、忽《たちま》ちに解決することであろうが、私は仙台人一般の説に従って、初子をいわゆる政岡として評したい。忠義の乳母《めのと》ももとより結構ではあるが、真実の母としてかの政岡をみた方がさらに一層の自然を感じはしまいか。事実のいかんは別問題として、封建時代に生まれた院本作者が、女主人公を忠義の乳母と定めたのは当然のことである。もし其の作者が現代に生まれて筆を執ったらば、おそらく女主人公を慈愛心の深い真実の母と定めたであろう。とにかく嘘でも本当でも構わない、わたしは「伽羅先代萩《めいぼくせんだいはぎ》」でおなじみの局政岡をこの初子という女に決めてしまった。決めてしまっても差支えがない。
仙台市の町はずれには、到るところに杉の木立と槿《むくげ》の籬《まがき》とが見られる。寺も人家も村落もすべて杉と槿とを背景にしていると云ってもいい。伊達騒動当時の陰謀や暗殺は、すべてこの背景を有する舞台の上に演じられたのであろう。
塩竈神社の神楽
わたしが塩竈の町へ入り込んだのは、松島経営記念大会の第一日であった。碧《あお》暗い海の潮を呑んでいる此の町の家々は彩紙《いろがみ》で造った花紅葉《はなもみじ》を軒にかざって、岸につないだ小船も、水に浮かんだ大船も、ことごとく一種の満艦飾を施していた。帆柱には赤、青、黄、紫、その他いろいろの彩紙が一面に懸け渡されて、秋の朝風に飛ぶようにひらめいている。これを七夕《たなばた》の笹のようだと形容しても、どうも不十分のように思われる。解り易く云えば、子供のもてあそぶ千代紙の何百枚を細かく引き裂いて、四方八方へ一度に吹き散らしたという形であった。
「松島行きの乗合船は今出ます。」と、頻《しき》りに呼んでいる男がある。呼ばれて値を付けている人も大勢あった。
その混雑の中をくぐって、塩竈神社の石段を登った。ここの名物という塩竈や貝多羅葉樹《ばいたらようじゅ》や、泉の三郎の鉄燈籠《かなどうろう》や、いずれも昔から同じもので、再遊のわたしには格別の興味を与えなかったが、本社を拝して横手の広場に出ると、大きな神楽《かぐら》堂には笛と太鼓の音が乱れてきこえた。
「面白そうだ。行って見よう。」
同行の麗水《れいすい》・秋皐《しゅうこう》両君と一緒に、見物人を掻き分けて臆面もなしに前へ出ると、神楽は今や最中《さなか》であった。果たして神楽というのか、舞楽《ぶがく》というのか、わたしにはその区別もよく判らなかったが、とにかくに生まれてから初めてこんなものを見た。
囃子は笛二人、太鼓二人、踊る者は四人で、いずれも鍾馗《しょうき》のような、烏天狗《からすてんぐ》のような、一種不可思議の面《おもて》を着けていた。袴は普通のもので、めいめいの単衣《ひとえもの》を袒《はだ》ぬぎにして腰に垂れ、浅黄または紅《あか》で染められた唐草模様の襦袢《じゅばん》(?)の上に、舞楽の衣装のようなものを襲《かさ》ねていた。頭には黒または唐黍《もろこし》色の毛をかぶっていた。腰には一本の塗り鞘《ざや》の刀を佩《さ》していた。
この四人が野蛮人の舞踊のように、円陣を作って踊るのである。笛と太鼓はほとんど休みなしに囃《はや》しつづける。踊り手も休み無しにぐるぐる廻っている。しまいには刀を抜いて、飛び違い、行き違いながら烈しく踊る。単に踊ると云っては、詞《ことば》が不十分であるかも知れない。その手振り足振りは頗《すこぶ》る複雑なもので、尋常一様のお神楽のたぐいではない。しかも其の一挙手一投足がちっとも狂わないで、常に楽器と同一の調子を合わせて進行しているのは、よほど練習を積んだものと見える。服装と云い、踊りと云い、普通とは変って頗る古雅《こが》なものであった。
かたわらにいる土地の人に訊くと、あれは飯野川《いいのがわ》の踊りだと云う。飯野川というのは此の附近の村の名である。要するに舞楽を土台にして、これに神楽と盆踊りとを加味したようなものか。わたしは塩竈へ来て、こんな珍しいものを観たのを誇りたい。
私は口をあいて一時間も見物していた。踊り手もまた息もつかずに踊っていた。笛吹けども踊らぬ者に見せてやりたいと私は思った。
孔雀船の舟唄
塩竈から松島へむかう東京の人々は、鳳凰《ほうおう》丸と孔雀《くじゃく》丸とに乗せられた。われわれの一行は孔雀丸に乗った。
伝え聞く、伊達政宗は松島の風景を愛賞して、船遊びのために二|艘《そう》の御座船《ござぶね》を造らせた。鳳凰丸と孔雀丸とが即《すなわ》ちそれである。風流の仙台|太守《たいしゅ》は更に二十余章の舟唄を作らせた。そのうちには自作もあると云う。爾来、代々の藩侯も同じ雛型《ひながた》に因って同じ船を作らせ、同じ海に浮かんで同じ舟唄を歌わせた。
われわれが今度乗せられた新しい二艘の船も、むかしの雛型に寸分たがわずに造らせたものだそうで、ただ出来《しゅったい》を急いだ為に船べりに黒漆《こくしつ》を施すの暇がなかったと云う。船には七人の老人が羽織袴で行儀よく坐っていた。わたしも初めはこの人々を何者とも知らなかった、また別に
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