しゃ》たる姿であった。
 兄は首にかけている箱から二匹の黒と青との蛇を取出して、手掌《てのひら》の上に乗せると、弟は一種の小さい笛を吹く。兄は何か歌いながら、その蛇を踊らせるのである。踊ると云っても、二匹が絡み合って立つぐらいに過ぎないのであるが、何という楽器か知らないが悲しい笛の音、何という節か知らないが悲しい歌の声、わたしは云い知れない凄愴《せいそう》の感に打たれて、この蛇つかいの兄弟は蛇の化身ではないかと思った。

     雨

 満洲は雨季以外には雨が少ないと云われているが、わたしが満洲に在るあいだは、大戦中のせいか、ずいぶん雨が多かった。
 夏季は夕立めいた雨にもしばしば出逢った。俄雨《にわかあめ》が大いに降ると、思いもよらない処に臨時の河が出来るので、交通に不便を来たすことが往々ある。臨時の河であるから知れたものだと、多寡《たか》をくくって徒渉《としょう》を試みると、案外に水が深く、流れが早く、あやうく押し流されそうになったことも再三あった。何が捕れるか知らないが、その臨時の河に網を入れている者もある。
 遼陽の南門外に宿っている時、宵《よい》から大雨、しかも激しい雷鳴が伴って、大地震のような地響きがするばかりか、真青《まっさお》な電光が昼のように天地を照らすので、戦争に慣れている私たちも少なからず脅《おびや》かされた。

     東京陵

 遼陽の城外に東京陵《トンキンりょう》という古陵がある。昔ここに都していた遼《りょう》(契丹《きったん》)代の陵墓で、周囲には古木がおいしげって、野草のあいだには石馬や石羊の横たわっているのが見いだされる。
 伝えていう、月夜雨夜にここを過ぎると、凄麗の宮女《きゅうじょ》に逢うことがある。宮女は笛を吹いている。その笛の音《ね》にひかれて、宮女のあとを慕って行くものは再び帰って来ないという。シナの小説にでもありそうな怪談である。
 わたしはそれを宿舎の主人に聞きただすと、その宮女は夜ばかりでなく、昼でも陰った日には姿をあらわすことがあると云う。ほんとうに再び帰って来ないのかと念を押すと、そう云って置く方が若い人たちの為であろうと、主人は意味ありげに笑った。
 その笑い顔をみて、わたしも覚った。そんな怖ろしい宮女ならば尋ねに行くのは止めようと云うと、
「好的《ハオデー》」と、主人はまた笑った。[#地付き](昭和7・6「都新聞」)
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仙台五色筆


 仙台《せんだい》の名産のうちに五色筆《ごしきふで》というのがある。宮城野《みやぎの》の萩、末の松山《まつやま》の松、実方《さねかた》中将の墓に生《お》うる片葉の薄《すすき》、野田《のだ》の玉川《たまがわ》の葭《よし》、名取《なと》りの蓼《たで》、この五種を軸としたもので、今では一年の産額十万円に達していると云う。わたしも松島《まつしま》記念大会に招かれて、仙台、塩竈《しおがま》、松島、金華山《きんかざん》などを四日間巡回した旅行中の見聞を、手当り次第に書きなぐるにあたって、この五色筆の名をちょっと借用することにした。
 わたしは初めて仙台の地を踏んだのではない。したがって、この地普通の名所や故蹟《こせき》に対しては少しく神経がにぶっているから、初めて見物した人が書くように、地理や風景を面白く叙述するわけには行かない。ただ自分が感じたままを何でもまっすぐに書く。印象記だか感想録だか見聞録だか、何だか判《わか》らない。

     三人の墓

 仙台の土にも昔から大勢《おおぜい》の人が埋められている。その無数の白骨の中には勿論、隠れたる詩人や、無名の英雄も潜《ひそ》んでいるであろうが、とにかく世にきこえたる人物の名をかぞえると、わたしがお辞儀しても口惜《くや》しくないと思う人は三人ある。曰《いわ》く、伊達政宗《だてまさむね》。曰く、林子平《はやししへい》。曰く、支倉六右衛門《はせくらろくえもん》。今度もこの三人の墓を拝した。
 政宗の姓はダテと読まずに、イダテと読むのが本当らしい。その証拠には、ローマに残っている古文書《こもんじょ》にはすべてイダテマサムネと書いてあると云う。ローマ人には日本字が読めそうもないから、こっちで云う通りをそのまま筆記したのであろう。なるほど文字の上から見てもイダテと読みそうである。伊達という地名は政宗以前から世に伝えられている。藤原秀衡《ふじわらのひでひら》の子供にも錦戸太郎《にしきどたろう》、伊達次郎というのがある。もっとも、これは西木戸太郎、館《たて》次郎が本当だとも云う。太平記にも南部太郎、伊達次郎などと云う名が見えるが、これもイダテ次郎と読むのが本当かも知れない。どのみち、昔はイダテと唱えたのを、後に至ってダテと読ませたに相違あるまい。
 いや、こんな詮議はどうでもいい。イダテにしても、ダテにしても、政宗はやはり偉いのである。独眼龍《どくがんりゅう》などという水滸伝《すいこでん》式の渾名《あだな》を付けないでも、偉いことはたしかに判っている。その偉い人の骨は瑞鳳殿《ずいほうでん》というのに斂《おさ》められている。さきごろの出水に頽《くず》された広瀬《ひろせ》川の堤《どて》を越えて、昼もくらい杉並木の奥深くはいると、高い不規則な石段の上に、小規模の日光廟が厳然《げんぜん》とそびえている。
 わたしは今この瑞鳳殿の前に立った。丈《たけ》抜群の大きい黒犬は、あたかも政宗が敵にむかう如き勢いで吠えかかって来た。大きな犬は瑞鳳殿の向う側にある小さな家から出て来たのである。一人の男が犬を叱りながら続いて出て来た。
 彼は五十以上であろう。色のやや蒼《あお》い、痩形《やさがた》の男で、短く苅った鬢《びん》のあたりは斑《まだら》に白く、鼻の下の髭《ひげ》にも既に薄い霜がおりかかっていた。紺がすりの単衣《ひとえもの》に小倉《こくら》の袴《はかま》を着けて、白|足袋《たび》に麻裏の草履《ぞうり》を穿《は》いていた。伊達家の旧臣で、ただ一人この墳墓を守っているのだと云う。
 わたしはこの男の案内によって、靴をぬいで草履に替え、しずかに石段を登った。瑞鳳殿と記《しる》した白字の額を仰ぎながら、さらに折り曲がった廻廊を渡ってゆくと、かかる場所へはいるたびにいつも感ずるような一種の冷たい空気が、流るる水のように面《おもて》を掠《かす》めて来た。わたしは無言で歩いた。男も無言でさきに立って行った。うしろの山の杉木立では、秋の蝉《せみ》が破《や》れた笛を吹くように咽《むせ》んでいた。
 さらに奥深く進んで、衣冠を着けたる一個の偶像を見た。この瞬間に、わたしもまた一種の英雄崇拝者であると云うことをつくづく感じた。わたしは偶像の前に頭《こうべ》をたれた。男もまた粛然として頭をたれた。わたしはやがて頭をあげて見返ると、男はまだ身動きもせずに、うやうやしく礼拝《らいはい》していた。
 私の眼からは涙がこぼれた。
 この男は伊達家の臣下として、昔はいかなる身分の人であったか知らぬ。また知るべき必要もあるまい。彼はただ白髪の遺臣として長く先君の墓所を守っているのである。維新前の伊達家は数千人の家来をもっていた。その多数のうちには官吏や軍人になった者もあろう、あるいは商業を営んでいる者もあろう。あるいは農業に従事している者もあろう。栄枯浮沈、その人々の運命に因っていろいろに変化しているであろうが、とにもかくにも皆それぞれに何らかの希望をもって生きているに相違ない。この男には何の希望がある。無論、名誉はない。おそらく利益もあるまい。彼は洗い晒《ざら》しの着物を着て、木綿の袴を穿いて、人間の一生を暗い冷たい墓所の番人にささげているのである。
 土の下にいる政宗が、この男に声をかけてくれるであろうか。彼はわが命の終るまで、一度も物を云ってくれぬ主君に仕えているのである。彼は経ヶ峯《きょうがみね》の雪を払って、冬の暁に墓所の門を浄《きよ》めるのであろう。彼は広瀬川の水を汲んで、夏の日に霊前の花を供えるのであろう。こうして一生を送るのである。彼に取ってはこれが人間一生の務めである。名誉もいらぬ、利益もいらぬ、これが臣下の務めと心得ているのである。わたしは伊達家の人々に代って、この無名の忠臣に感謝せねばならない。
 こんなことを考えながら門を出ると、犬はふたたび吠えて来た。

 林子平の墓は仙台市の西北、伊達堂山の下にある、槿《むくげ》の花の多い田舎道をたどってゆくと、路の角に「伊達堂下、此奥に林子平の墓あり」という木札を掛けている。寺は龍雲院というのである。
 黒い門柱がぬっと立ったままで、扉《とびら》は見えない。左右は竹垣に囲まれている。門をはいると右側には百日紅《さるすべり》の大木が真紅《まっか》に咲いていた。狭い本堂にむかって左側の平地に小さな石碑がある。碑のおもては荒れてよく見えないが、六無斎《ろくむさい》友直居士の墓とおぼろげに読まれる。竹の花筒には紫苑《しおん》や野菊がこぼれ出すほどにいっぱい生けてあった。そばには二個の大きな碑が建てられて、一方は太政《だじょう》大臣|三条実美《さんじょうさねとみ》篆額《てんがく》、斎藤竹堂《さいとうちくどう》撰文、一方は陸奥守《むつのかみ》藤原慶邦《ふじわらよしくに》篆額、大槻磐渓《おおつきばんけい》撰文とある。いずれも林子平の伝記や功績を記したもので、立派な瓦家根の家の中に相対して屹立《きつりつ》している。なにさま堂々たるものである。
 林子平はどんなに偉くっても一個の士分の男に過ぎない。三条公や旧藩主は身分の尊い人々である。一個の武士を葬った墓は、雨叩きになっても頽《くず》れても誰も苦情は云うまい。身分の尊い人々の建てられた石碑は、粗末にしては甚だ恐れ多い。二個の石碑が斯くの如く注意を加えて、立派に丁寧に保護されているのは、むしろ当然のことかも知れない。仙台人はまことに理智の人である。
 わが六無斎居士の墓石は風雨多年の後には頽れるかも知れない。いや、現にもう頽れんとしつつある。他の二個の堂々たる石碑は、おそらく百年の後までも朽ちまい。わたしは仙台人の聡明に感ずると同時に、この両面の対照に就いていろいろのことを考えさせられた。

 ローマに使いした支倉六右衛門の墓は、青葉神社に隣りする光明院の内にある。ここも長い不規則の石段を登って行く。本堂らしいものは正面にある。前の龍雲院に比べるとやや広いが、これもどちらかと云えば荒廃に近い。
 案内を乞うと、白地の単衣《ひとえもの》を着た束髪《そくはつ》の若い女が出て来た。本堂の右に沿うて、折り曲がった細い坂路をだらだらと降りると、片側は竹藪《たけやぶ》に仕切られて、片側には杉の木立の間から桑畑が一面に見える。坂を降り尽くすと、広い墓地に出た。
 墓地を左に折れると、石の柵《さく》をめぐらした広い土の真んなかに、小さい五|輪《りん》の塔が立っている。支倉の家はその子の代に一旦亡びたので、墓の在所《ありか》も久しく不分明であったが、明治二十七年に至って再び発見された。草深い土の中から掘り起したもので、五輪の塔とは云うけれども、地・水・火の三輪をとどむるだけで、風《ふう》・空《くう》の二輪は見当らなかったと云う。今ここに立っているのは其の三個の古い石である。
 この墓は発見されてから約二十年になる。その間にはいろいろの人が来て、清い水も供えたであろう、美しい花も捧げたであろう。わたしの手にはなんにも携えていなかった。あいにく四辺《あたり》に何の花もなかったので、わたしは名も知れない雑草のひと束を引き抜いて来て、謹《つつし》んで墓の前に供えた。
 秋風は桑の裏葉を白くひるがえして、畑は一面の虫の声に占領されていた。

     三人の女

 仙台や塩竈《しおがま》や松島で、いろいろの女の話を聞いた。その中で三人の女の話を書いてみる。もとより代表的婦人を選んだという訳でもない、また格別に偉い人間を見いだしたというのでもない、むしろ平凡な人々の身の上を、平凡な筆に因って伝うるに過ぎないのかも知れない。
 塩竈街道の燕沢、いわゆる「蒙古の碑」
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