ことがある。農であるが、先ずここらでは相当の大家《たいけ》であるらしく、男の雇人が十数人も働いていた。そのなかに二十五、六の若い男があって、やはり他の雇人と同じ服装をして同じように働いているが、その人柄がどこやら他の朋輩《ほうばい》と違っていて、私たちに対しても特に丁寧に挨拶する。私たちのそばへ寄って来て特に親しく話しかけたりする。すべてが人を恋しがるような風が見えて、時には何となく可哀そうなように感じられることがある。早く云えば、継子《ままこ》が他人を慕うというような風である。
 これには何か仔細《しさい》があるかと思って、あるとき他の雇人に訊いてみると、果たして仔細がある。彼はこの家の次男で、本来ならば相当の土地を分配されて、相当の嫁を貰って、立派に一家の旦那様で世を送られる身の上であるが、若気《わかげ》の誤まり――と、他の雇人は云った。――十五、六歳の頃から棒を習った。それまではまだ好《よ》いのであるが、それから更に進んで兵となって、奉天《ほうてん》歩隊に編入された。所詮《しょせん》、両親も兄も許す筈はないから、彼は無断で実家を飛び出して行ったのである。
 それから二、三年の後、彼は伍長か何かに昇進して、軍服をつけて、赤い毛を垂れた軍帽をかぶって、久しぶりで実家をおとずれると、両親も兄も逢わなかった。雇人らに命じて、彼を門外へ追い出させた。さらに転じて近所の親類をたずねると、どこの家でも門を閉じて入れなかった。彼はすごすご[#「すごすご」に傍点]と立ち去った。
 それからまた二、三年、前後五、六年の軍隊生活を送った後に、彼は兵に倦《あ》きたか、故郷が恋しくなったか、軍服をぬいで実家へ帰って来たが、実家では入れなかった。親類も相手にしなかった。それでも土地の二、三人が彼を憫《あわ》れんで、彼のために実家や親類に嘆願して、今後は必ず改心するという誓言の下《もと》に、両親や兄のもとに復帰することを許された。先ず勘当が赦《ゆる》されたという形である。
 しかも彼は直ちに劉家の次男たる待遇を受けることを許されなかった。帰参は叶《かな》ったというものの、当分は他の雇人と同格の待遇で、雇人同様に立ち働かなければならなかった。彼はその命令に服従して、朝から晩まで泥だらけになって働いているのである。当分と云っても、もう二年以上になるが、彼はまだ本当の赦免に逢わない。彼は今年二十六歳であるが、恐らく三十歳になるまではそのままであろうという。
 その話を聞かされて、私はいよいよ可哀そうになった。いかに国風とは云いながら、兵になったと云うことがそれ程の罪であろうか。それに伴って、何か他に悪事でも働いたというならば格別、単に軍服を身に纏ったと云うだけのことで、これほどの仕置を加えるのは余りに残酷であると思った。彼が肩身を狭くして、一種の継子のような風をして、他国人の私たちを恋しがるのも無理はない。その以来、私は努めて彼に対して親しい態度を執るようにすると、彼もよろこんで私に接近して来た。
 ある日、私が城内へ買物にゆくと、その帰り途で彼に逢った。彼も何か買物にやられたとみえて、大きい包みをかついでいた。それでも直ぐに私のそばへ駈け寄って来て、私の荷物を持ってくれた。一緒に帰る途中、私は彼にむかって「お前も骨が折れるだろう。」と慰めるように云うと、彼は「私が悪いのだ。」と答えた。彼自身も飛んだ心得違いをしたように後悔しているらしかった。
 これはほんの一例に過ぎないが、良家の子が兵となれば、結局こんなことになるのである。入営の送迎に旗を立ててゆく我が国風とは、あまりに相違しているではないか。いかなる名将勇士でも、国民の後援がなければ思うようの働きは出来ない。その国民がこの如くに兵を嫌い兵を憎むようでは、士気の振わないのも当然であるばかりか、まじめな人間は兵にならない。兵の素質の劣悪もまた当然であると云うことを、私はつくづく感じた。
 平和を愛するのはいい。しかしこれほどに武を憎む国民は世界の優勝国民になり得ない。シナはあまりに文弱であり過ぎる。これと反対の一例を私が実験しているだけに、この際いよいよその感を深うしたのである。
 劉家へ来るひと月ほど以前に、私は海城《かいじょう》北方の李家屯《りかとん》という所に四日ばかり滞在したことがある。これも相当の大家であったが、私が宿泊の第一日には家人は全く姿をみせず、老年の雇人ひとりが来て形式的の挨拶をしただけで、万事の待遇が甚だ冷淡であった。
 その第二日に、その家の息子らしい十二、三歳の少年が私の居室の前に遊んでいた。彼は私の持っている扇をみて、しきりに欲しそうな顔をしているので、私はその白扇に漢詩の絶句をかいてやると、彼はよろこんで貰って行った。すると、一時間あまりの後に、その家の長男という二十二、三歳の青年が衣服をあらためて挨拶に来て、先刻の扇の礼を云った。青年は相当の教育を受けているらしく、自由に筆談が出来るので、だんだん話し合ってみると、この一家の人々は私がカーキー服を来て半武装をしているのを見て、やはり軍人であると思っていたらしい。しかも白扇の題詩を見るに及んで、私が軍人でないことを知ったというのである。日本の軍人に漢詩を作る人はたくさんあるが、シナにはないと見える。
 ともかくも私が文字の人であることを知ると共に、一家内の待遇が一変した。長男が去ると、やがてまた入れ代って主人が挨拶に来た。日が暮れる頃には酒と肉を贈って来た。他の雇人らも私をみるといちいち丁寧に挨拶するようになった。長男の青年は毎朝かならず挨拶に来て、何か御用は無いかと云った。私がいよいよ出発する時には、主人や息子たちは衣服をあらためて門前まで送って来た。他の雇人らも総出で私に敬礼した。
 敬意を表されて腹の立つ者はない。私もその当時は内々得意であったが、後に遼陽城外の劉家に来て、かの奉天歩隊の勘当息子をみるに及んで、彼らが余りに文を重んじ、武を軽んずるの甚しきを憐《あわ》れむような心持にもなって来た。これではシナの兵は弱い筈である。
 多年の因習、一朝《いっちょう》に一洗することは不可能であるとしても、新興国の当路者がここに意を致すことなくんば、富国はともあれ、強兵の実は遂に挙がるまいと思われる。[#地付き](昭和8・1「文藝春秋」)
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満洲の夏


     池

 この頃は満洲の噂がしきりに出るので、私も一種今昔の感に堪えない。わたしの思い出は可なり古い。日露戦争の従軍記者として、満洲に夏や冬を送った当時のことである。
 満洲の夏――それを語るごとに、いつも先ず思い出されるのは得利寺《とくりじ》の池である。得利寺は地名で、今ではここに満鉄の停車場がある。わたしは八月の初めにここを通過したが、朝から晴れた日で、午後の日盛りはいよいよ暑い。文字通り、雨のような汗が顔から一面に流れ落ちて来た。
「やあ、池がある!」
 沙漠でオアシスを見いだしたように、私たちはその池をさして駈けてゆくと、池はさのみ広くもないが、岸には大きい幾株の柳がすずしい蔭を作って、水には紅白の荷花《はすばな》が美しく咲いていた。
 汗をふきながら池の花をながめて、満洲にもこんな涼味に富んだ所があるかと思った。池のほとりには小さい塾のようなものがあって、先生は半裸体で子どもに三字経を教えていた。わたしはこの先生に一椀の水を貰って、その返礼に宝丹一個を贈って別れた。
 その池、その荷花――今はどうなっているであろう。

     龍

 蓋平《がいへい》に一宿した時である。ここらの八月はじめは日が長い。晴れた日がほんとうに暮れ切るのは、午後十時頃である。
 その午後六時半頃から約四十分ほど薄暗くなったかと思うと、また再び明るくなった。海の方面に大雨が降ったらしいという。やがて七時半に近い頃である。あたりの土着民が俄《にわ》かに騒ぎ出した。
「龍《ロン》! 龍《ロン》!」
 みな口々に叫んで表へかけ出すので、私も好奇心に駆られて出てみると、西の方角――おそらく海であろうと思われる方角にあたって、大空に真黒《まっくろ》な雲が長く大きく動いている。その黒雲のあいだを縫って、金色の光るものが切れぎれに長くみえる。勿論、その頭らしい物は見えないが、金龍の胴とも思われるものが見えつ隠れつ輝いているのである。
 雲は墨よりも黒く、金色は燦《さん》として輝いている。太陽の光線がどういう反射作用をするのか知らないが、見るところ、まさに描ける龍である。
 龍を信ずる満洲人が「龍!」と叫ぶのも無理はないと、私は思った。

     蝎

 南京虫は日本にもたくさん輸入されているから、改めて紹介するまでもないが、満洲の夏において最も我々をおびやかしたものは蝎《さそり》であった。南京虫を恐れない満洲の民も、蝎と聞けば恐れて逃げる。
 蝎も南京虫とおなじく、人家の壁の崩れや、柱の割れ目などに潜《ひそ》んでいる。時には枯草などをたばねた中にも隠れている。しかも南京虫とは違って、その毒は生命に関する。私はある騎兵が右手の小指を蝎に螫《さ》されて、すぐに剣をぬいてその小指を切断したのを見た。
 蝎の毒は蝮《まむし》に比すべきものである。殊に困るのは、その形が甚だ小さく、しかも人家の内に棲息《せいそく》していることである。蝎の年を経たものは大きさ琵琶《びわ》の如しなどと、シナの書物にも出ているが、そんなのは滅多にあるまい。私の見たのは、いずれもこおろぎ[#「こおろぎ」に傍点]ぐらいであった。
 土地の人は格別、日本人が蝎に襲われたという噂を、近来あまり聞かないのは幸いである。満洲開発と共に、こういう毒虫は絶滅させなければなるまい。
 蝎は敵に囲まれた時は自殺する。おのが尻尾《しっぽ》の剣先をおのが首に突き刺して仆《たお》れるのである。動物にして自殺するのは、恐らく蝎のほかにあるまい。蝎もまた一種の勇者である。

     水

 満洲の水は悪いというので、軍隊が基地点へゆき着くと、軍医部では直ぐにそこらの井戸の水を検査して「飲ムベシ」とか「飲ムベカラズ」とか云う札《ふだ》を立てることになっていた。
 私が海城村落の農家へ泊まりに行くと、あたかも軍医部員が検査に来て、家の前の井戸に木札を立てて行くところであった。見ると、その札に曰く「人馬飲ムベカラズ」
 人間は勿論、馬にも飲ませるなと云うのである。これは大変だと思って、呼びとめて訊くと、「あんな水は絶対に飲んではいけません」という返事である。この暑いのに、眼の前の水を飲むことが出来なくては困ると、わたしはすこぶる悲観していると、それを聞いて宿の主人は声をあげて笑い出した。
「はは、途方もない。わたしの家はここに五代も住んでいます。私も子供のときから、この井戸の水を飲んで育って来たのですよ。」
 今更ではないが「慣れ」ほど怖ろしいものは無いと、わたしはつくづく感じさせられた。しかも満洲の水も「人馬飲ムベカラズ」ばかりではない。わたしが普蘭店《ふらんてん》で飲んだ噴き井戸の水などは清冽《せいれつ》珠《たま》のごとく、日本にもこんな清水は少なかろうと思うくらいであった。

     蛇

 海城の北門外に十日ほど滞留していた時である。八月は満洲の雨季であるので、わが国の梅雨季のように、とかくに細かい雨がじめじめ[#「じめじめ」に傍点]と降りつづく。
 わたしたちの宿舎のとなりに老子《ろうし》の廟があって、滞留の間にあたかもその祭日に逢った。雨も幸いに小歇《こや》みになったので、泥濘《でいねい》の路を踏んで香を献《ささ》げに来る者も多い。縁日商人も店を列《なら》べている。大道芸人の笙《しょう》を吹くもの、蛇皮線《じゃびせん》をひく者、四《よ》つ竹《だけ》を鳴らす者なども集まっている。
 その群れのうちに蛇人《だにん》――蛇つかいの二人連れがまじっていた。おそらく兄弟であろう、兄は二十歳前後、弟は十五、六であるが、いずれも俳優かとも思われるような白面《はくめん》の青年と少年で、服装も他の芸人に比べるとすこぶる瀟洒《しょう
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