ともしばしばあります。日清戦争には二六新報の遠藤《えんどう》君が威海衛《いかいえい》で戦死しました。日露戦争には松本日報の川島《かわしま》君が沙河で戦死しました。川島君は砲弾の破片に撃たれたのです。私もその時、小銃弾に帽子を撃ち落されましたが、幸いに無事でした。その弾丸がもう一寸《いっすん》と下がっていたら、唯今《ただいま》こんなお話をしてはいられますまい。私のほかにも、こういう危険に遭遇して、危く免れた人々は幾らもあります。殊に今日《こんにち》は空爆ということもありますから、いよいよ油断はなりません。
今度の事変にも、北支に、上海に、もう幾人かの死傷者を出したようです。この事変がどこまで拡大するか知れませんが、従軍記者諸君のあいだに此の以上の犠牲者を出さないようにと、心から祈って居ります。[#地付き](昭和12・8稿・『思ひ出草』所収)
[#改ページ]
苦力とシナ兵
一
昨今は到るところで満洲の話が出るので、わたしも在満当時のむかしが思い出されて、いわゆる今昔《こんじゃく》の感が無いでもない。それは文字通りの今昔で、今から約三十年の昔、私は東京日日新聞の従軍記者として、日露戦争当時の満洲を奔走していたのである。
それについての思い出話を新聞紙上にも書いたが、それからそれへと繰り出して考えると、まだ云い残したことが随分《ずいぶん》ある。そのなかで苦力《クーリー》のことを少しばかり書いてみる。
シナの苦力は世界的に有名なもので、それがどんなものであるかは誰でも知っているのであるから、今あらためてその生活などに就いて語ろうとするのではない。ただ、ひと口に苦力といえば、最も下等な人間で、横着で、狡猾《こうかつ》で、吝嗇《りんしょく》で、不潔で、ほとんど始末の付かない者のように認められているらしいが、必ずしもそんな人間ばかりで無いと云うことを、私の実験によって語りたいと思うのである。
私が戦地にある間に、前後三人の苦力を雇った。最初は王福《おうふく》、次は高秀庭《こうしゅうてい》、次は丁禹良《ていうりょう》というのであった。
最初の王福は一番若かった。彼は二十歳で、金州《きんしゅう》の生まれであると云った。戦時であるから、かれらも用心しているのかも知れないが、極めて柔順で、よく働いた。一日の賃銀は五十銭であったが、彼は朝から晩まで実によく働いて、われわれ一行七人の炊事から洗濯その他の雑用を、何から何まで彼一人で取《とり》り賄《まかな》ってくれた。
彼は煙草《たばこ》をのむので、私があるとき菊世界という巻莨《まきたばこ》一袋をやると、彼は拝して受取ったが、それを喫《の》まなかった。自分の兄は日本軍の管理部に雇われているから、あしたの朝これを持って行ってやりたいと云うのである。われわれの宿所から管理部までは十町ほども距《はな》れている。彼は翌朝、忙がしい用事の隙《すき》をみて、その莨を管理部の兄のところへ届けに行った。
それから二、三日の後、私が近所を散歩していると、彼は他の苦力と二人づれで、路《みち》ばたの露店の饅頭《まんとう》を食っていたが、私の姿をみると直《す》ぐに駈けて来た。連れの苦力は彼の兄であった。兄は私にむかって、丁寧に先日の莨の礼を述べた。いかに相手が苦力でも、一袋の莨のために兄弟から代るがわるに礼を云われて、私はいささか極まりが悪かった。
その後、注意して見ると、彼は時どきに兄をたずねて、二人が連れ立って何か食いに行くらしい。どちらが金を払うのか知らないが、兄弟仲のいいことは明らかに認められた。私は兄の顔をみると、莨をやることにしていたが、二、三回の後に兄はことわった。
大人《たいじん》の莨の乏しいことは私たちも知っていると、彼は云うのである。実際、戦地では莨に不自由している。彼はさらに片言《かたこと》の日本語で、こんな意味のことを云った。
「管理部の人、みな莨に困っています。この莨、わたくしに呉れるよりも、管理部の人にやってください。」
私は無言でその顔をながめた。勿論、多少のお世辞もまじっているであろうが、苦力の口から斯《こ》ういう言葉を聞こうとは思わなかったのである。これまでとかくに彼らを侮《あなど》っていたことを、私は心ひそかに恥じた。
金州の母が病気だという知らせを聞いて、王の兄弟は暇《ひま》を取って郷里に帰った。帰る時に、兄も暇乞《いとまご》いに来たが、兄は特に私にむかって、大人はからだが弱そうであるから、秋になったらば用心しろと注意して別れた。
王福の次に雇われて来たのが、高秀庭である。高は苦力の本場の山東《さんとう》省の生まれであるが、年は二十二歳、これまで上海《シャンハイ》に働いていたそうで、ブロークンながらも少しく英語を話すので調法であった。これも極めて柔順で、すこぶる怜悧《れいり》な人間であった。
高を雇い入れてから半月ほどの後に、遼陽《りょうよう》攻撃戦が始まったので、私たちは自分の身に着けられるだけの荷物を身に着けた。残る荷物はふた包みにして、高が天秤《てんびん》棒で肩にかついだ。そうして、軍の移動と共に前進していたのであるが、この戦争が始まると、雨は毎日降りつづいた。満洲の秋は寒い。八月の末でも、夜は焚火がほしい位である。その寒い雨に夜も昼も濡《ぬ》れていた為に、一行のうちに風邪をひく者が多かった。私もその一人で、鞍山店《あんざんてん》附近にさしかかった時には九度二分の熱になってしまった。
他の人々も私の病気を心配して、このままで雨に晒《さら》されているのは良くあるまいというので、苦力の高を添えて私を途中にとどめ、他の人々は前進することになった。鞍山店は相当に繁昌している土地らしいが、ここらの村落の農家はみな何処《どこ》へか避難して、どの家にも人の影はみえない。高は雨の中を奔走して、比較的に綺麗な一軒のあき家を見つけて来てくれた。そこへ私を連れ込んで、彼は直ぐに高梁《コーリャン》を焚いて湯を沸かした。珈琲《コーヒー》に砂糖を入れて飲ませてくれた。前方では大砲や小銃の音が絶え間なしにきこえる。雨はいよいよ降りしきる。こうして半日を寝て暮らすうちに、その日もいつか夜になった。高は蝋燭をとぼして、夕飯の支度にかかった。
日が暮れると共に、わたしは一種の不安を感じ始めた。以前の王福の正直は私もよく知っていたが、今度の高秀庭の性質はまだ本当にわからない。私の荷物は勿論、一行諸君の荷物もひと纏めにして、彼がみな預かっているのである。私が病人であるのを幸いに、夜なかに持ち逃げでもされては大変である。九度以上の熱があろうが、苦しかろうが、今夜は迂濶《うかつ》に眠られないと、私は思った。
そうは思いながらも、高の煮てくれた粥《かゆ》を食って、用意の薬を飲むと、なんだかうとうと[#「うとうと」に傍点]と眠くなって来た。ふと気が付くと、枕もとの蝋燭が消えている。マッチを擦って時計をみると、今夜はもう九時半を過ぎている、高の姿はみえない。はっ[#「はっ」に傍点]と思って、私は直ぐに飛び起きた。
しかし荷物の包みはそのままになっている。調べてみると、品物には異状はないらしい。それでやや安心したが、それにしても彼はどこへ行ったのであろう。二、三度呼んでみたが返事もない。台所の土間にも姿はみえない。この雨の夜にどこへも行くはずはない、あるいは何かの事情で私を置き去りにして行ったのかとも思った。なにしろ、これだけの荷物がある以上、油断してはいられないと思ったので、私は毛布を着て起き直った。砲声はやや衰えたが、雨の音は止まない。夜の寒さは身にしみて来た。
それから二時間ほどの後である。高は濡《ぬ》れて帰って来た。彼は一枚の毛布を油紙のようなものに包んで抱えていた。
これで事情は判明した。彼は昼間から私の容体を案じていたのであるが、日が暮れていよいよ寒くなって来たので、彼は私のために更に一枚の毛布を工面《くめん》に行ったのである。われわれの食物その他はすべて管理部で支給されるのであるから、彼は管理部をたずねて行った。戦闘開始中は管理部も後方に引き下がっているのであるから、彼は暗い寒い雨の夜に一里余の路を引返して、ようように管理部のありかを探し当てたが、管理部でも毛布までは支給されないという。第一、余分の毛布もないのである。それでも彼はいろいろに事情を訴えて、一枚の古毛布を借りて来て、病める岡大人――岡本の一字を略して云う――に着せてくれる事になったのである。
私は感謝を通り越して、なんだか悲しいような心持になった。前にもいう通り、私たちはとかくに苦力らを侮蔑する心持がある。その誤りをさきに王福の兄弟に教えられ、今はまた、高秀庭に教えられた。いたずらに皮相を観て其の人を侮蔑する――自分はそんな卑しい、浅はかな心の所有者であるかと思うと、私は涙ぐましくなった。その涙は感激の涙でなく、一種の自責の涙であった。
私は高のなさけに因《よ》って、その夜は二枚の毛布をかさねて眠った。あくる朝は一度ほども熱が下がったのと、前方の戦闘がいよいよ激烈になって来たのとで、私は病いを努《つと》めて前進することにした。高は彼《か》の古毛布を斜めに背負って、天秤の荷物をかついで、私のあとに続いて来た。雨はまだやまなかった。
最後の丁禹良はやや魯鈍《ろどん》に近い人間で、特に取立てて語るほどの事もなかったが、いわゆる馬鹿正直のたぐいで、これも忠実勤勉であった。それでも「わたしも今に高のようになりたい」などと云っていた。高秀庭はその勤勉が管理部の眼にもとまり、私たちの方でも推薦して苦力頭の一人に採用されたからである。苦力頭は軍隊使用の苦力らの取締役のようなもので、胸には徽章《きしょう》をつけ、手には紫の総《ふさ》の付いている鞭《むち》を持っている。丁のような人の眼にも、それが羨《うらや》ましく見えたのであろう。
彼らに就いては、まだ語ることもあるが、余り長くなるからこの位にとどめて置く。いずれにしても、私たちの周囲にいた苦力らは前に云ったような次第で、ことごとく忠実善良の人間ばかりであった。私たちの運がよかったのかも知れないが、あながちにそうばかりとも思われない。
多数のなかには、横着な者も狡猾な者もいるには相違ないが、苦力といえば一概に劣等の人間と決めてしまうのは、正しい観察ではないと思われる。それと反対に、私は苦力という言葉を聞くと、王福の兄弟や、高秀庭や、丁禹良らの姿が眼に浮かんで、苦力はみな善良の人間のように思われてならない。これも勿論、正しい観察ではあるまいが――。
二
今度は少しくシナの兵士について語りたい。
シナの兵隊も苦力と共に甚だ評判の悪いものである。シナ兵は怯懦《きょうだ》である、曰《いわ》く何、曰く何、一つとしてよいことは無いように云われている。しかも彼らの無規律であり怯懦であるのは、根本の軍隊組織や制度が悪いためであって、彼らの罪ではない。
現在のシナのような、軍隊組織や制度の下《もと》にあっては、いかなる兵でも恐らく勇敢には戦い得まいと思う。個人としてのシナ兵が弱いのではなく、根本の制度が悪いのである。新たに建設された満洲国はどんな兵制を設けるか知らないが、在来の制度や組織を変革して、よく教えよく戦わしむれば、十分に国防の任務を果たし得る筈である。
それよりも更に変革しなければならないのは、軍隊に対する一般国民の観念である。由来、文を重んずるはシナの国風であるが、それが余りに偏重し過ぎていて、文を重んずると反対に武を嫌い、武を憎むように慣らされている。シナの人民が兵を軽蔑し憎悪することは、実に我々の想像以上である。
「好漢|不当兵《へいにあたらず》」とは昔から云うことであるが、いやしくも兵と名が付けば、好漢どころか、悪漢、無頼漢を通り越して、ほとんど盗賊類似のように考えられている。そういう国民のあいだから忠勇の兵士を生み出すことの出来ないのは判り切っている。
私は遼陽城外の劉《りゅう》という家《うち》に二十日余り滞在していた
前へ
次へ
全41ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング